平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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平成7年7月
花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根はみえねんだなあ◎相田みつお『にんげんだもの』より
一見傲慢とも思える言葉ですが、この自信を裏付けるように両巨匠とも戦前戦後にわたり、ひたすら自分達の仕事を追求し続け、数々の名作を発表していきました。その後、この二人に匹敵する巨匠は未だ現れていません。
◆ 憂鬱な現代社会
今年は先の戦争から50年という節目の年。日本は、世界は、どう変わったでしょう‥‥言うまでもなく余りにも情けない状況が続きます。
政治の腐敗は慢性的なものとなり、不況のしわ寄せは国民にのしかかったまま出口が見えずにいます。冷戦が終わっても新たな国際紛争が絶えず、政治家は国内向けに点数を稼ごうとするだけです。
また1月17日の阪神大震災では、日本建築の安全神話が崩れるとともに、行政の無能ぶりが露呈されました。唯一『英雄的』と世界から評された被災市民とボランティアの活躍も、3月20日以降、マスコミはほとんど無視し続ける事になります。そして、地下鉄サリン事件に関しては一々論じるまでもないでしょう。宗教者、医師、科学者、教師、自衛隊等々、責任の重いはずの人達の無責任な言動は呆れ返るばかりです。
また、国民の不安を取り除こうとしない政治家、宗教を知らないマスコミの体たらく、そして何よりも、若者の心を無視し続けた既成宗教。“皆が自分の仕事をやっていればこんな事態になりはしなかった"のではないでしょうか。
◆ 国と宗教の罪
混乱は今後も収まりそうにありません。戦後50年目の国会決議さえ、政治家は戦争犯罪の責任を曖昧にして、右往左往するばかりです。また『原爆投下は正しかった』とするアメリカ。紛争解決で今だに武力を用いるロシア。無差別大量殺人の歴史を正当化する者が邪教教団を非難できるでしょうか。
考えてみれば、戦前の日本はまさにこうした正当化が公然と行われていた国でした。自分達の侵略行為は棚に上げ、ひたすら欧米からの被害者を演じて見せ、聖戦の名の下に国民を戦争に駆り立てていく。そしてその勢いを抑えるどころか組織ぐるみで加担していった各宗教教団。
50年前と今と、どの国がそしてどの宗教が確実に体質を改めているでしょうか。
◆ 末法を越えた仏教
国の乱れは責任ある者が責任ある仕事をしないために起こると、歴史が語っています。しかしそういう危機的状況こそ、宗教的使命感が発揚され、新しい時代を担う思想家や宗教者が活躍する時期でもありました。
特に『末法』と呼ばれた鎌倉時代は、法然、親鸞、一遍、栄西、道元といった現在も光を放ち続ける仏教者が多数出現し、衆生の悩みに応えた時代でした。
これにより日本の仏教は真に民衆のための教えに戻り、教え本来の活動が展開されるのですが、その中でも親鸞聖人は、末法を時代のせいだけにせず、自己の無明こそを問題とされ、闇を破する如来の本願に帰していかれました。自己の現実を最大の問題とすることで、その宗教態度が時代を越え、国を越え、そして宗派、宗教を越えて人々を照らす教えになった事は皆さんご存じの通りです。
◆ 終末論の恐怖
戦後50年の今年、西暦では1995年という、つまり千年ごとの節目が目前であるためか『終末論』なるものが、まことしやかに語られています。
先の教団も、また多数の宗教がこの論を布教に利用しています。この思想が『末法思想』と異なる点は、恐怖が人類の存続そのものに向けられている点です。単に「世の中が乱れる」という緩やかな危機感でなく、「世界はほとんど滅亡する」と説くのです。そのため恐怖の度合いが余りに大きく、信仰を強めるための警告としても、少し度が過ぎる予言だと思わざるを得ません。
しかしこんな予言が、まことしやかに語られるのは、ただ数字の節目というだけでは片付けられない現実があります。それは、誰も責任ある仕事をし切っていない──政治家も、各種団体も、企業も、学校や家庭にも問題があります。そして、忘れてはならないのが浄土真宗を含めて既成宗教の責任です。新興宗教の教学的未熟さを笑いながら、その批判に見合う活動を私たちはしているでしょうか。末法を経験した仏教の智恵、これを現代に生かせなくて何のための教学でしょう。
こうして、誰も責任を引き受ける者がないまま混乱の根は深く進行し、経済や軍事、科学や宗教までもが、人類に大きな不幸をもたらしかねない要因になってしまいました。
◆ 一人一人の責任
しかしその混乱の根が、私たち一人一人に生えた根である事を忘れてはならないでしょう。私の問題は、まず自分の言動の責任であり言動を支える心です。その解決を通してこそ社会との関わりも、世界全体の問題ともアクセス出来ます。他人を非難したり、時代を悪く言うのは簡単ですが、それだけでは何の解決にもなりません。
一人一人が責任をもって行動し社会に貢献する──阪神大震災で被災者たちが見せた忍耐と助け合いの気持ち、また慣れないボランティア活動にも積極的に参加した人達、もちろん特別な事件がなくても自分のすべき事を見つけて人知れず努力している人達も数多くいます。まだこんな尊い根が私たちにあるのだと気付かされる事も多いでしょう。
そういう一人一人の、もろくても現に存在する根こそが、国や世界の危機という大きな問題に対しても力となり得るのであって、決して特別な人間が特別な力で支えるものではない、と多くの人に知っていてもらいたいのです。そして、そういう尊い根を育てるのが仏教なのです。
「皆が自分の仕事をやっていれば、こんな事態になりはしなかったのだ」と、二度と言わなくて済むように──まだ自分のすべき事を見い出せずにいる人に、そして私に問いかけたいと思います。
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