これは事件なのか、事故なのか?
現実において映画公開当時、秋田県藤里町で警察の判断ミスによって悲劇が拡大された事件が起きたばかりであったが、映画の中でも同様の落下事故(事件?)があり、偶然とはいえ見ている側は現実の事件ともイメージが重なってしまい、少々この問いかけは重く響てくる。
果たして早川猛は橋の上で起きた出来事をしっかり見ていたのだろうか。またその現場にはどんな事実が隠されていたのか。彼は記憶の先にある事実が自分の中で少しづつ変形してゆくことに気づく。そしてこの「ゆれ」が観客にも波及し息苦しくなる。
そういえば『唯識論』では、「見る」ということは実は能動的な行為であり、過去の経験の蓄積された記憶が変容して投影され「事実」といわれる影を形作る、と説いている。つまり確固とした「客観的事実」があってそれを受動的に見ているのではない。
同様に、早川猛にとってはあの優しい兄が幼なじみを突き落とすはずがない≠ニ兄を信じる気持ちから弁護に奔走するのだが、兄の隠れた一面に触れてみると、あの兄なら智恵子を突き落としかねない≠ニいう不信感が芽生え、それが別の事実を作り始めるのだ。
やがて兄から自分の努力を自己保身に過ぎない≠ニ冷淡に弾じられたことから、猛はあの日に起きた「事実」を記憶の中から再検証せざるを得なくなる。そして最後に見えた「事実」が裁判の行方を決定してゆくのだが……
久々に映画らしい映画を観た。二世代に渡る兄弟の確執。幼なじみを巡る嫉妬心。故郷に残った者と都会に出て自由奔放に暮らす者との隔たり。様々な要素が絡んで「ゆれる」世界を見事に描き上げた名作だ。
中でも伏線の確かな脚本の妙が光った。洗濯物をたたみながら智恵子の酒癖を聞く兄、手錠を掛けられた兄の手に長く引かれた傷跡、猛に託されたフィルム。どれも後に決定的な「ゆれ」を現出してゆく。
映像美も堪能できた。ただ美しい風景というだけではなく、そこに人間の情緒や怨念までも投影できる、もしくは投影させらてしまう映像だった。
また、俳優たちの演技も素晴らしい。オダギリジョーと香川照之は、互いに気遣いながらも決定的な断絶も経験するという難しい役を見事にこなしていた。さらに伊武雅刀と蟹江敬三は、熟練の演技で兄弟の確執を演じていた。他の役者も大方素晴らしい演技だった。ただ、こうした名演技の中に素人同然の者が混じると見事に浮いてしまう。誰とは言わないがミスキャストが一人、玉に瑕であった。
聞くところによると、この作品は西川美和監督の夢から生まれた映画だそうだが、ここまで心理的完成度の高い夢を観るとは、才能の塊ともいうべき存在だ。