明治41年(1908年)、<こんな夢を見た>で始まる『夢十夜』が発表された。いわずと知れた夏目漱石の短編小説だが、「余は吾文を以て百代の後に伝えんと欲する野心家なり」(1906年10月22日、森田草平宛書簡より)との文も残されている異色作。当時としては尋常でない内容だ。
明治の文豪が抱えるこの底深い夢がいよいよ映像化された。コアなファンも多いこの小説に、100年後の現代人はどこまで応え得ただろうか。
一つひとつ感想を述べてみる。
作家の百聞と妻のツグミは、根津権現裏の家で平穏に暮らしていた。ツグミは土間の茶店で働いており、百聞は机に向かっているが、なかなか筆が進まない。それどころか、時間がさかのぼっているような感覚を覚える。やがてツグミは静かに着物を脱いで横たわり、「百年可愛がってくれたんだから、もう百年、待っててくれますか?」と言い残し、消え入るように死んでしまう……。(パンフレットより)
原作では、女が死んで百年待っている間の情景が美しく描かれているが、映画では一足飛びに「百年はもう来ていたんだな」となる。確かに明治時代の「百年後」は「今現在」だからこれで良いのかも知れない。展開は原作より複雑化していてそれなりに面白いのだが、詰め込みすぎた感はある。
男がうす暗い部屋に入って座ると、いつの間にか和尚がいる。そして男は自分が侍だったことに気付く。「侍なら悟れぬはずはない」という和尚に挑発され、懸命に悟りを得ようとする侍。しかし一向に悟りはやってこない。(パンフレットより)
原作をほぼ忠実に再現。白黒サイレント映画の手法で侍の内面を描き出している。素直に映像化されているので好感が持てる。
ある夏の日。子どもたちの声も騒々しく、漱石の筆はなかなか進まない。そればかりか、いいようのない苛立ちを感じていた。6人目の子を身ごもっている妻の鏡子は、その夜、奇妙な話をする。子どもの頃、地蔵の首を誤って落としてしまい、それ以来、その地蔵の夢を見るようになった。ところが最近、その地蔵の首を戻す夢を見たというのだ。(パンフレットより)
Jホラーの旗手清水崇が、この恐ろしい第三夜を手がける。となれば、本来なら怖さ倍増の作品となるはずだったが、残念ながら原作の怖さには遠く及ばない。もっとゆっくりした展開の方が良かったのでは。
田舎町に講演にやってきた漱石。「町民会館前」でバスを降りたはずが、そこは「面影橋四丁目」だった。神隠し≠ェあるというその町では、「見ててみ、見ててみ、蛇になるから!」と叫ぶ老人のあとを、子ども達が歌いながらついていく。つられて漱石もあとをつけると、そこはどこか見覚えのある町だった。(パンフレットより)
原作では爺さんの一人芝居が延々続くのだが、映画は複雑な展開にして見せる。賛否が分かれるところだが、私は楽しめた。
真砂子が鳴り響く電話の音で目を覚ますと、聞き覚えのある声がこう告げる。「夜が明けて、鶏が鳴くまで待つ……」。夫の庄太郎の身を案じる真砂子。リビングには、いるはずのない男と子どもがおり、さらに不気味な姿の天探女[あまのじゃく]が現れる。(パンフレットより)
これも原作を外れて複雑な展開にしている。こうした表現が好きな人はいいが、もっとシンプルな方が見やすかったと思う。
運慶が仁王像の頭を彫るというので、見物人が集まってくる。が、現れた運慶は、唐突にアニメーションダンスを踊り始める。それは、木の中に埋まっている形を彫り出す、斬新な彫り方だったのだ。(パンフレットより)
鎌倉彫刻ファンの私としては第六夜の出来を一番気にしていたが、アニメーションダンスでこれを表現し切ったところは凄いし、落ちも面白い。漱石も拍手しているはずだ。ただ、石原良純は余計だったのではないだろうか。
ちなみに「木の中に埋まっている形を彫り出す」のは快慶の作風で、運慶の彫刻は、一旦造った像に新たに肉付けを加えて製作していたことが解っている。(参照:{画竜点睛に込められた心})
旅人が巨大な船に乗っているが、どこへ向かっているのかもわからない。ひどい孤独感を感じ、いっそ死のうかと思っていると、甲板で少女に出会う。彼女も不安を抱えているようだった。(パンフレットより)
第七夜は3DCGアニメーションで表現。これは大成功だろう。主人公の心理もよく描けている。
子供達が田んぼで遊んでいると、その中のひとりミツが、チューブ状の不思議な生物を捕まえる。ミツは10メートル以上もあるその巨大な生物を家に持ち帰り、リキと名付ける。(パンフレットより)
原作では第八夜と第十夜はつながっているので同じスタッフで作って欲しかったが、完全に別の作品となった。それにしても何だあの生物は? 意味不明だ。
幼い坊と母を残して、父は出征していった。夜、神社の境内に連れて行かれた坊は、母がお参りをしているあいだ、待っていなければならない。母は何度も手を合わせ、お百度を踏んでいるようだ。だが坊が拝殿の扉を開けて覗き込んでみると、そこには戦地の父の姿があった。(パンフレットより)
原作は戦国時代がかっているが、映画では近代(おそらく第二次世界大戦)に当てはめている。戦争の悲惨さがにじみ出てくる話だが、もう少しストレートに表現しておいた方が良かったのでは。
町一番の色男・庄太郎は、美女に目がないが、ブスは死んで当然と思っている非道な男。そんな庄太郎が、死にそうになって帰ってくる。庄太郎の話はこうだ。数日前、目の覚めるような美女よし乃について行くと、なぜか「豚丼」しかない食堂に案内された。あまりの旨さに、豚丼を次々とたいらげる庄太郎だったが、その作り方は、世にもおぞましいものだった。(パンフレットより)
第十夜は映像化しづらい箇所だったと思うが、原作を外れて完全にギャグまんが化されている。ラストがこれだから、上映が終わって得た印象が少々軽いものになった。しばらくは豚丼が食べられないかも知れない。
以上、十作品とも夏目漱石に挑む姿勢は伝わってくるが、全体的に詰め込みすぎの感がなくもない。一つ一つのユメは唐突に終わるが全体として伝わってくる≠ニいう基本を敷いた方が良かったかも知れない。ただ、新旧の一流監督それぞれの思い入れは見ていて清々しいので一見の価値はある映画だ。