昭和15年といえば日本が第二次世界大戦に参戦する直前だが、ここに、笑いに命をかけた男と、笑いを弾圧する検閲官が出遭い、奇妙な物語が展開する。
検閲官の向坂睦男は、芝居の台本を徹底的に戦時色に染める役割で、「この時節に笑いなど必要ない」と、椿一の台本を上演禁止に持ち込む腹で取り調べを行なう。
検閲箇所が小出しに指摘され、毎日台本の書き換えを命じられる椿一だが、理不尽な要求をのむことでさらに笑いを増し、やがて向坂のこだわりが加味されて思いがけない傑作が生み出されてゆく。
こうした「ありえない」幸福なシチュエーションが最高潮に達したまさにそのとき、「あなたには話しておきたい」と本音を吐いた椿一。それを聞いた向坂は・・・
舞台版は「三谷幸喜の最高傑作」とも「もはやコメディーの古典」とまで評価された作品で、長らく映画化が待ち望まれていたが、ある意味そのシナリオの完璧性ゆえに映画化が阻まれていたともいえよう。しかし、大勢の人にこの傑作を見てもらう機会が増えた意味は大きい。それほどまでに話の軸はしっかりしている。
ところが、内容はほとんど同じで微妙な変化を加えただけなのだが、舞台と映画で印象が大きく違っているのはどうしてだろう。おそらく、舞台化された1996年と、映画化された2004年では、時代環境が変化しているせいではないだろうか。特に「お国のため」という台詞の響きが明かに違って聞こえるのだ。
’96年の日本では、「お国」を「おくにさん」や「お肉」に変えても、単なる言葉遊びとしか受け取れなかったが、年を経るごと笑いながらも心の片隅に何かひっかかるものが出てきた。「お国」の意味を考え始めている自分がいるのだ。そして、本当に「お肉のため」なら死んでいけるのだろうか、むしろ「おくにさんのためなら死ねる」、いや「生きていける」と台詞を変えてほしかった――などと、様々に思いをめぐらすことになった。
舞台も映画も生き物である。そして国家もやはり生き物。戦争になれば真っ先に弾圧されるのが笑いであろう。お笑い芸人がマスコミを席巻する中、この映画が示す検閲場面は過去なのか、それとも近未来なのだろうか。