今は誰でも知ってる(想像できる)時間旅行だが、H・G・ウェルズがいなければ、ターミネーターが現代に送り込まれて溶鉱炉で溶かされることも、ロック好きの少年がチャックベリーに曲を提供することも、ドラエモンが机の引出から出て『どこでもドア』を出すこともなかったかも知れない。
約100年前のSF小説というのは当に「科学空想小説」と呼ぶにふさわしく、月へ旅行に行ったり、ロボットが暴走したり、高速道路や高層建築、FAXまで理論的に空想されている。今ではそのほとんどが実現されているが、タイム・マシンは未だにその片鱗も形作られていない。しかし小説や映画ではほとんど古典的なアイテムとなってしまった。この魅力は文字通り時代を超えていると言えるだろう。
H・G・ウェルズが1895年に発表したこの『タイム・マシン』では、後に問題となってくる理論的矛盾(例えば自分が生れる前に時間をさかのぼり、実母を殺害したらどうなるか等)については考察を外れているが、それ以外の多くの普遍的なテーマを含んでいる。
未来・・・人類が滅亡しなければ、という条件で直面する未来はどんな世界か。どんな社会制度で、地球環境はどうなっているのか。そもそも人類の形態は今と同じなのか。進化するのか退化するのか。――かつては宗教的な『予言』としてしか語れなかった未来を、ウェルズは理論的、科学的な推理で描いてみせる。
小説で描かれる未来(西暦80万2701年)は、残念ながら私たち現代人にとって既に科学的根拠を失ってしまった世界といえる。
どういうことかというと、ある時代の人が未来を想像する場合、「今」の延長線上に未来があると常識的に考えるからだ。それは短期的には成功するかもしれないが、長期になればなる程成功しない。(もしこれをクリアしようと思えば、Nさんの予言のように意味不明の言葉を神秘的に並べるしかない) 例えば米ソ冷戦時代に想像された未来では、ソ連は厳然と存在し、多くの場合アメリカとの直接戦争(主に核戦争)を経験している。実はこの『タイム・マシン』も、1960年に映画化された時(ジョージ・パル製作・監督)はそうした世界観に変更された経緯がある。当時の世界では東西冷戦構造が最も重要な問題だったからだ。
では100年前のヨーロッパでは何が問題とされていたか――
ぼくはまず現代の諸問題から出発した。ぼくには火をみるより明らかなことと思われたのだが、現在、資本家と労働者の間には、一時的で社会的な差異が存在しているにすぎないけれど、その差異が次第にひろがって、このような人類の分裂が起こったと考えるほかに手がかりはないのだ。
<中略>
地上には持てるものだけが住んで快楽や美を追求し、地下には持たざるものだけが住んで、労働者としてたえずその労働の条件に適応して働くようになるだろう。
<中略>
ぼくが観察したかぎりでは、地上人の洗練された美しさと地下人の色あせた青白さは、きわめて自然的な帰結だと思われた。
[第5章]
人類は、地上世界に住む洗練されたエロイ(資本家の末路)と地下世界に住む獰猛なモーロック(労働者の末路)の二つの種族に別れてしまう――という想像ができるくらい、当時の社会では資本家と労働者の生活環境が違っていたのだろう。現在でもその傾向が無くなったわけではないが、いくら何でも進化に分裂をきたすほどの隔絶は無い。
実はこの小説は、ここまででは終わらず、エロイ族のいきつく先の悲劇まで描いてみせる。
彼らの生活はまったく楽しそうだったが、それは牧場の牛たちと同じような楽しさだった。彼らは牛と同じようになんの敵も意識せず、何の危険にもそなえなかった。そして彼らは、牛と同じような最期を遂げるのだ。
[第10章]
未来を描いた小説の大多数は悲劇的に描かれるが、それは文明批判としての一面をSF小説が担っているせいであろう。「このままいったら、えらいことになるゾ」という警告である。ただ、多くの未来は、過去のそのままの延長線上にはない。現在の常識も時代が変われば常識ではなくなる可能性は高い。
そうすると現在、常識的に大問題となっている「環境問題」や「遺伝子組換」「臓器移植」「南北問題」「核開発」「食糧問題」等は解決されているのだろうか。また「コンピューダー」や「インターネット」「ロボット」はどんな進化を遂げるのだろうか。
H・G・ウェルズの意志を継いで私たちも80万年後というのを想像してみると面白いかも知れない。例えそれがすぐに科学的根拠を失うような未来であっても、少なくとも現代にとって意味をなせば良いのだから。
引用:阿部知二訳/創元推理文庫
[Shinsui]
PS: 2002年にもサイモン・ウェルズ監督で『タイムマシン』が公開されたが、原作や1960年のジョージ・パル監督作品と比べると、余りに安っぽく駄作であるため、コメントは差し引かえさせていただく。