饒舌な男と寡黙な男、どちらの方がまごころ≠フ通いあう家庭を造り出せるだろうか。
饒舌な男は大概、相手の言葉を遮り、他人の気持ちを踏みにじって自己弁護に逃げる。
では寡黙な男はどうか。寡黙な男は自己弁護はしない。だが寡黙なだけではまごころ≠ヘ通じない。
寡黙な男に欠けているものとは、一体何なのか。
この映画のテーマは、冷淡になってしまった親子関係を、いかに熱い血の通う関係に再構築していけるか≠ニいうところにあるだろう。妻を亡くしてひとり辺鄙な漁村に暮らす高田剛一の役を高倉健が、入院中の息子高田健一の役を中井貴一(声のみ)が演じている。名前からもキャラクター設定からも、高倉健そのものの生き様がベースにあるのは間違いないが、あらためて寡黙で不器用で一途≠ネ人間の持つパワーはすさまじい、と思った。
ただこういう一途な人間は、映画やドラマで観る分にはいいが、身近に居ると結構迷惑なのではないだろうか。息子が交わした約束を知り、すぐさま中国大陸奥地へ向かう剛一、……話の種にはなるが、これでは仲介に入った理恵には迷惑がかかる。現実であれば、義父が中国に行ったことを知り携帯を切った後は、「もう、お義父さんたら、人の気も知らないで。これだから健一さんも会いたくなくなるのよー!」などと愚痴が出るところだろう。
中国・雲南省に出かけた高田剛一は、一組の親子に関わることになる。息子の健一が撮影を約束していた舞踏家リー・ジャーミン(李加民)は刑務所に収監されていたのだ。高田はそれでもあきらめず、周囲の人たちの助けを借りてようやく刑務所にたどり着く。しかし肝心のリー・ジャーミンは「息子に一目会いたい」と泣くばかりで撮影にならない。
私の感覚では、息子と会えないことと仮面劇の件は話が違うじゃないか≠ニか、一度も会っていない息子のためにそんなに泣けるのか?≠ニ思ってしまったが、刑務所に居ると心細くなって泣けてくるのだろう(と善意で解釈)。それどころか高田は、リーのストレートな感情表現を自分にないもの≠ニ羨望さえし、彼の息子ヤン・ヤンを迎えにさらに奥地へ向かう。私とは器が違うのだろう。
長旅の果てでようやくヤン・ヤンに遇い、しばらく一緒に過ごすうち、高田は実の息子にしてやれなかったことを見出してゆく。心が通じ始めた二人。ところがヤン・ヤンは「父親には会いたくない」と漏らす。周囲の大人たちは「会いに行きなさい」と命令するが……
日本と中国の関係を考えると経済面では不可欠の関係。しかし政治面においては、日本では中国脅威論が喧伝され、中国では日本への不信感を募らせ、ともに身動きが取れなくなっている。国家である限り他国に対する警戒は怠ることはできないが、これほど顕著に嫌悪感を交錯させていては打つ手が限られてしまうだろう。両国にとっても、アジアや世界全体にとっても不幸な状況が続いている。
こうした冷え切った政治状況だからこそ、この映画が封切られた意味は大きいのかも知れない。チャン・イーモウ監督は、1978年に『君よ憤怒の河を渉れ』を観て以来、主演の高倉健に憧れを抱いてきたという。ちなみにこの映画は、凄惨な文化大革命後、外国映画開放政策を記念する第一作として公開され、中国において熱狂的に迎えられた作品だ。第一作が高倉健主演作でよかったとは思うが、政治的には寡黙を続けるわけにはいかない。
寡黙でもなく饒舌でもなく、雄弁に互いの意見をぶつけ合い、まごころに同感してゆきたいものである。チャン・イーモウ監督が、高田剛一と中国民衆の姿に託したものは、言葉を超えた深い同感なのではないだろうか。
それにしても高倉健、波を背にこれほど絵になる男はいない。ただその裏返しで、彼が携帯電話やデジタルカメラを使う姿に、私はどことなく違和感を覚えてしまうのだった。