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【本・映画等の紹介、評論】

砂の女

安部公房/新潮文庫

 砂の本質

『諸行無常』という言葉がある。
 この言葉から『覚り』という目標を忘れ、『救い』という希望を引っこ抜いて日常生活を表現したら、一体どんな世界が出来上がるだろう。
 安部公房を世界的に有名にしたこの『砂の女』は、その一つの解答とも言える。ここに描かれた生活は、「非日常における異常な虚しさ」のようであるが、「一皮むくと当に自分の日常そのもの」であることに気付く。

 昆虫採集に出かけた男「仁木順平」は、砂に関しては並々ならぬ観察眼と一家言を持っている。それは新種の昆虫を発見する、というマニアックな趣味と密接な関連があるのだが、物語の初期(まだ自分の状況が分かっていない段階)で思い描く彼の砂へのイメージは、既に今後の展開を予感させつつ、さらに人類の活動、文化文明の意味を問う内容になっている。

 あの砂の流れが、かつては繁栄した都市や大帝国をさえ、亡ぼし、呑み込んでしまったことがあったのだ。
<中略>
 砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。

[第一章 6]

 やがて男は、その虚しさを純化したような奴隷生活に陥る。

 奇妙な共同生活

 蟻地獄のようにすり鉢状になった砂の底にある一軒家。そこに閉じ込められた仁木順平は、彼を引き入れた女と奇妙な共同生活を始める。毎日毎日、侵食してくる砂をかきあげ、労働の見返りに与えられるのは、わずかな水と食料だけ。穴の上からは、二人の生活を監視し続ける部落の人々がいる。

 当然、耐え切れなくなった順平は何度も脱出を試みるが、ことごとく失敗する。一度は穴から脱出するが、村の外に出る作戦は失敗に終わる。
 再び穴の中に戻された男は、女のいたわる言葉にやり切れない思いを抱くが、次第に怒りをぶつける気力は萎えてしまう。

・・・互いに傷口を舐(な)め合うのもいいだろう。しかし、永久になおらない傷を、永久に舐めあっていたら、しまいに舌が摩滅してしまいはしないだろうか?
「納得がいかなかったんだ・・・まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが・・・しかし、あの生活や、この生活があって、向こうの方が、ちょっぴりましに見えたりする・・・<中略>まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ・・・」
「洗いましょう・・・」
 はげますように女が言った。しめったしびれるような声だった。

[第二章 27]

 やがて男は穴の中での生活に順応し、脱出の機会が訪れても逃げなくなってしまう。

 暴き出された日常

 ところでこの村は、現実としては一体何を表しているのだろうか。そしてこの穴の中での生活は、私たちの日常とどう関わるのか。

 たとえばこの村は、「日本社会の縮図」として見る事ができる。また、「監視の行き届いた未来社会」とも取れる。また、カルト教団の集団生活との類似も指摘できるだろう。
 また穴の中での生活は、「私たちの日常そのものに外ならない」とも言える。日々の「ほんのささやかな幸せ」や「守るべき大切なもの」といっても、所詮「崩れ落ちる砂を必死でかき上げるような虚しい努力」なのではないかと・・・。

 これほどまでに非日常を描きながら、逆に日常生活との比較を試みざるを得なくなるのは一体何故だろう? ――それはおそらく私たちが、この砂の中での虚しい生活以上のものを、結局は探しあぐねている証拠なのではないだろうか。
 この物語を読むと、そうした自分の姿が暴き出され、胸の奥に溜まっていた砂が、雄叫びとともに掻き出されるのを感じる。

 つくづく恐ろしい小説である。受験直前には読まないよう警告する。

[Shinsui]


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