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【本・映画等の紹介、評論】

死んだ金魚をトイレに流すな
「いのちの体験」の共有

近藤卓 著/集英社新書

 二種の自尊感情

 最近はタイトル名の良し悪しが本の売れ行きを左右する≠ニ言われているが、この死んだ金魚をトイレに流すな≠ニいう題は言い得て妙である。そして「いのちの体験」の共有≠ニいう副題も本全体の内容を語っていて好感が持てる。

 近藤卓氏は長年にわたりスクールカウンセラーとして子ども達と向き合い、その経験を生かした多数の著があるのだが、この本では「いのちの重みを実感する」ということをテーマにしている。特に題にあるように、死んだ金魚をトイレに流すこと、しかもそれを子ども達の目の前でやるような親の行為が「いのちを軽視する風潮につながっている」と警鐘を鳴らしている。

 いのちの軽視はまず自分自身のいのちを軽視する≠ニいうことに始まる。そしてこれが元となって他のいのちの軽視につながってゆく。

無差別に人を殺してしまった容疑者が、よく言う言葉がある。「誰でもよかった」と。自分には生きている価値がないと思い込んでいる人間にとっては、自分のいのちも他人のいのちも羽根のように軽いのである。
「いのちを軽くあつかう子どもたち」より
 確かにこれは道理であろう。自分自身を大事にできない人間は周囲の人を大事にできるわけがない。なぜなら、人間を大事にするという意識が本心から湧いてこないからだ。犯罪を抑えるためにも、犯罪を犯す必要のない人間、自らに「生きている価値」を見出す人間を増やすことが重要だろう。

 なお、この「生きている価値」は、わざわざ苦労して自覚したり獲得するものではなく、「自分自身が生きていくことに何の疑いも持たないでいられる子ども」こそが「自尊感情が豊かにある子ども」であるという。

親や先生にどんなにきつく叱られようと、自分が全否定されたとは思わない。また次のチャンスがある、次に頑張ればいいんだと明るい方向に切り替えられるので、立ち直りも早い。打たれ強く、心の回復力が十分に強いのである。自分が生きているのは当然のことで、いちばん自然なことだという、生に対する根本的な信頼感があるのだ。

 そういう生の喜びにあふれた子どもたちが、なぜか少なくなってきている。私が出会うのは、何かあると自分を全否定されたような気持ちになってしまう、繊細で脆弱で、打たれ弱く、自分の生にどこか疑問を抱いている子どもや青年たちばかりなのである。

「少なくなっている生の喜びにあふれた子どもたち」より
 近藤氏は従来より言われている自尊感情について、「基本的自尊感情」と「社会的自尊感情」の二種があると分析する。

 前者は、他者と比較しない絶対的・無条件な感情で、永続的で無理のない自然な自尊感情。後者は、他者と比較した相対的・条件つきの感情で、一過性で表面的な自尊感情。一言で言えば「安心」と「優越感」の違いとなる。この二つのうち特に重要なのは基本的自尊感情であり、これが「挫折や困難を乗り切る原動力であり、その人自身の生きる力」となる。そして基本的自尊感情が希薄な子どもは「どれほど学業が優秀であっても、心はもろい」ので、著者はこの拡大を勧めている。

 一方、「社会的自尊感情」は、学業や結果を褒めることによって容易に身につけさせることができ、一時的には自信満々になり誇りや自惚れを得るが、この感情が余りに肥大してしまうと子どもたちはプラスの評価ばかりほしがるようになり、自己中心的でわがまま放題になってしまうという。しかも「うぬぼれと自信喪失は常に紙一重で並存している」ため、社会的自尊感情の肥大は「砂上の楼閣」であると断じる。

 死を受容する過程で

 重要な「基本的自尊感情」を促すために、先の死んだ金魚をトイレに流す≠ニいうことが最悪だとすれば、何を良しとするのか。著者は死の受容≠親や仲間とともに経験することを勧める。

 人間は一般的に、@不動性、A不可逆性、B不可避性の三つの段階を踏んで死の概念を固めていくという。

●第一段階(五歳未満)
死んだら動かないという身体的な死の事実は知っているが、死の不可逆性は理解できない。死は旅立ちであったり、眠ることであり、長い間眠っていてもやがて目覚めたり、生き返ると信じている子もいる。
●第二段階(五〜九歳)
死んだら生き返ることはないという不可逆性は理解できるが、すべての人に死が訪れるものとは理解できず、また死を擬人化していることが多い。六歳七ヶ月の少女は「死は悪い子どもを連れ去ったりする。死は雪のように白い。どこにいても白く、邪悪で、子どもが好きではない」と表現している。
●第三段階(九歳以上)
人間にとって死は避けられないものと理解する。九歳四ヶ月の少女は「死は人生の終末です。死は運命です。死はこの世の生の終わりです」と表現した。
 こうした様々な段階においていのちの体験の共有≠勧めている。

 死の問題は何と言っても、近親者や自分自身がいくら避けたいと懇願しても絶対に避けられないという絶望的な事実から起こってくる。子どもにとって死は、生の裏面に張り付いた闇であり底知れぬ恐怖である。そして誰もがなぜ自分は死ななくてはいけないの?≠ニ尋ねても答えは見出せず、様々な幻想的物語を信じようにも確証がなく信じることもできない。

 いずれ正しい人生観を得るためには、二度と生まれてこない一度きりの人生≠ニ心定める必要があるのだが、そう認識するまでの過程が重要である。一人で重い荷物を背負い続けていくのか、皆で共有していくのか。これが大きな違いとなってくる。

優しかったおじいちゃんが亡くなって、子どもが大きなショックを受けている。そんなとき、親に「大丈夫?」などと慰められるより、親自身が涙を流してその死を嘆いている姿を見たほうが、子どもは癒される。深いところで悲しみを共有できたと感じられるからだ。そして親の泣く姿を見て、いのちの重みを実感できるのである。

 しかし、身近にいる家族とも、友だちとも、誰とも「いのちの体験」を共有できなかったとしたら、それはとても残酷なことだ。「自分は生まれてきてよかった」「ここにいていいのだ」という実感が持てないのだから、どこにも居場所がないのである。
<中略>
 その孤独に耐え切れなくなったときに、彼らは暴発する。家庭内暴力、薬物、自傷行為、あるいは過食や拒食、売春も、自分の心身を傷つけることで、いのちの確認をしているのである。
<中略>
 そんな声に誰も耳を貸さないと感じた子どもたちは、深く絶望し、「私が死んだって、どうせ誰も悲しんでくれない」「生きてる価値なんかないんだ」と、死に急ぐのだ。

「自分の居場所がない」より

 また「基本的自尊感情」を育むには「愛の共有体験」を必須とし、「ぬくもりのあるスキンシップ」、「言葉を発しない生き物の気持ちを代弁」、「マスコミ等で衝撃的場面を見た時は親の衝撃を子どもにも伝えて感情を共有する」、「本の読み聞かせ」、「死の看取りを共有する」等の重要性を挙げている。

 さらに、愛情を注いで育てたはずの子どもがどういうわけか自信のない子になってしまうことがあるが、そこには「無条件の禁止」が欠けている、と指摘している。

 考えてみてほしい。何でも買い与え、何でも許すといった態度で、子どもは親に愛されていると思えるだろうか。むしろ、子どもたちにはほしがるものを与えておきさえすればいいという態度に、親に無視され、拒否されているとさえ感じ取る。禁止のない一方通行の愛は、子どもたちを愛に餓えさせ、かえって孤独にするということを、もっと親は認識しなければいけないと思う。
<中略>
駄目なものは駄目と、きっちりと子どもに伝える絶対的な禁止のことだ。そして、理屈など関係なく「無条件の禁止」があることを子どもに教えることが重要だ。
「一方通行の愛しか知らない子どもたち」より
 実際、この「無条件の禁止」が失われれば、家庭はもちろん、社会や国家も成立せず、そこは弱肉強食の畜生世界となってしまう。親は子どもに「無条件の禁止」を与えることで、人間としての健やかな成長を本気で願っていることを伝えてゆくのだろう。

[Shinsui]


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