1982年、シルベスター・スタローン演じるランボーが最強のベトナム帰還兵≠演じて以来、つねに忘れられた存在の咆哮≠描いてきたこのシリーズが、ここビルマ(ミャンマーではなくビルマ)で終焉をむかえることとなった。
戦場を嫌というほど知り尽くしたランボーと、戦場を全く知らないサラとの出会いによって物語は始まる。サラは仲間とともにカレン族に医療品を届けようとしていたのだが、このカレン族こそ、イギリス分断統治下でキリスト教教育を受け入れビルマ植民地支配の片棒を担いだため、長く他民族から憎悪の対象となっている民族であった。しかもここはいまだ内戦が続く場所。危険すぎる支援ゆえ依頼を固辞していたランボーだったが、サラの純真な心にうたれて道案内を引き受けることになる。
皆を目的地に届けて数日後、支援団がミャンマー政府軍に拉致された、との情報が届く。ランボーは救出のため、5人の傭兵とともにカレン族の村へ向かうが、そこは腐乱した遺体が折り重なる惨[むご]たらしい殺戮現場だった。そのあまりの凄惨さに傭兵隊のリーダーは撤退を決めるが、ランボーは彼に矢を向けて詰問する。「ムダに生きるか。何かのために死ぬか、お前が決めろ!」と……
映像は眼を背けたくなるようなシーンの連続。これが戦場のリアルな表現なのだろう。しかしどれだけ映像技術が進んでも冒頭のニュース映像の残虐さにはかなわない。そしてこのニュース映像も実際の戦闘を伝えきれている訳ではあるまい。本当の戦闘は、痛みと絶望が身心を襲うものであることを忘れてはならないだろう。
「武器がなければ何も変えられない」と、いくつもの絶望を通った果てにつぶやくランボー。
「何があっても人を殺してはいけない」と、現場を知らず理想論を語る支援者たち。
平和な国であれば後者の方が良識であり、前者は危険人物とされる。しかし戦場ではむしろ前者が常識であり、後者の言葉は非常識となる。
たとえば、今の日本で「武器による変革」を叫ぶ者が現れても、皆は無視するか、危険思想の持ち主として注視するだろう。国際社会全体でも、眼が行き届く地域では武器の使用は極めて制限されているし、様々な平和的条約もこれを後押ししている。
だが監視の届かない地域では、武器を持つ者だけが力を得て場を支配する。武器は民衆を屈服させたい権力者にとって、またそれに反逆する者たちにとっても必須アイテムである。しかし、武器を向けられた側にとっては絶望への入口となる。
こうした現状ゆえ、戦争論者と平和論者は長く互いを批判しながら、決して交わることのない主張を繰り返してきた。顧みれば、人類はつねにこの交わることのない平行線の間を揺れ動いてきたのではないか。
映画では、戦闘地域に武器なしで乗り込む支援団の変化も追うが、最後は最も原始的な武器である「石」で相手の頭を何度も殴りつけることになる。理想論を語る人間も、本当に追い詰められれば戦闘本能がはたらき、残虐に「なれる」ことを見せ付けているのだろう。
ラストでランボーは、故郷で余生を送る父親のもとに帰ってゆく。ランボーがようやく見つけた「帰る場所」。それは地図に載っている場所ではない。サラの純真な心に応え得た≠ニいう希望的な場所である。しかしそれは同時に、純真な者もいざとなれば戦闘マシンと化す≠ニいう、人類の嘆きを共有する場所だったのかも知れない。
おそらくシルベスター・スタローンとしては、このラストシーンを演じるためにこそ映画を撮ったのだろう。そう考えるとランボーにとって、そしてスタローンにとっても実に長く孤独な戦いだったといえる。ただし、この映画はベトナム戦争のアメリカ側の言い訳を代弁しているとも言える。つまり「仏教の盛んな国にキリスト教を布教するためだからこの戦争は善であった」ということ。
当時ベトナムの仏教僧が焼身自殺でアメリカに抗議したニュースが報じられたことがあったが、そうした弾圧でキリスト教を布教しようとしていたアメリカの深意が逆の図式を見せ、「キリスト教徒こそが弾圧されている」と見せたいのだろう。実に巧妙なレトリックだ。
こうした偽のメッセージを見出し、ようやく最強の戦闘マシン≠ヘビルマで戦闘を終えた。しかし、人間としての苦悩や葛藤はどこまで続くのだろう。また、それを見届ける者は果たしているのだろうか。それは忘れられた存在に本当に帰る場所はあるのか≠ニいう最初期のテーマに繋がってゆく問いでもある。
さらには、ビルマ(ミャンマー)ではいまだに軍政が布かれ、民族浄化(「浄化」という表現は使いたくないが)の嵐は日々激しさを増している。これは大統領が変わっても同じだ。忘れられた存在≠ヘ、いつの時代でも、どの地域でも絶望の淵でもがき苦しんでいる。解決の第一歩は、私たちが忘れられた存在≠忘れられない存在≠ノ変えることから始まるのだろう。