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【本・映画等の紹介、評論】

お念佛に解放された私

―ポーランドの女医入信の道程―

アグネス・エンジェエスカ 著/村石恵照・都路初子 訳/清文堂書店 あすか・ぶっく4

 ローマ法王の仏教誤認を打破

 欧米の文化には、抜き差し難い、思い上がった側面がある。それは、いつでも自分達が最上だと思い込もうとしていることで、またそれを何とか証明しようともがく癖がある。
 キリスト教徒にとっては、キリスト教が最上の教えでなければ存在意義が失われてしまうのだろうか。この意義を守るために、他の宗教や文化を意識的に誤解し卑下し破壊してきた過去がキリスト教にはある。
 この『お念佛に解放された私』の第1章は、「仏教とは何か/ ローマ法王ヨハネ・パウロU世の仏教誤解に答えて」と題されているが、ローマ法王によって為された、意識的とも思える仏教誤認(意識的でなければ理解力不足)を打破することに費やされている。

 つい最近、私は特別な手紙を受け取りました。ポーランドのある編集者が私に個人的に手紙をよこしたのです。彼の依頼は、ローマ法王が最近だした有名な「CROSSING THE THRESHOLD OF HOPE」三浦・曽野共著では(希望の扉を開く)」という本のなかで、仏教について法王によってなされたいくつかの基本的な結論について回答をしてほしいというものでした。
 その編集者は特に問題となる法王の五つの判断を自由に選び出してきましたが、それらはすでに多くの仏教徒達を憤慨させたものでした。法王の書かれたものは特定の仏教宗派に触れたものではありませんでしたが、キリスト教が、仏教より優れた宗教であることを証明しようとするものでした。
 そのポーランド人の編集者は、正式な仏教僧侶である私に、はっきりと自分の立場をとるように要請していました。もし私が自分の宗教(仏教)と自分が僧侶であることに真摯であれば、私は発言しなければなりません。

[ポーランドからの手紙]

 ローマ法王の仏教批判は全く的外れなのだが、キリスト教徒、特にポーランドの人々にとっては、「法王の権威は、戦前の天皇陛下に匹敵するもの」であり、幾たびも法王のために戦争をした歴史があるほど影響力は強い。そのため、このまま誤解を野放しにしておくことはできないと決意しての書き出しである。
 特に、『希望の扉を開く』の第14項の「ブッダとは」の中でローマ法王は「仏教は消極的救済論である」と述べており、涅槃を「世界に対する完全な無関心の状態」と断じるのだが、これは論外であろう。また、「釈迦は、被造物のすべてに対して否定的である」という断定は、仏教の基本である「仏性」という言葉も知らないか、とさえ疑ってしまう。
 このような誤解を真に受けた「ある編集者」からの質問は、以下の通りである。

  1. 仏教は否定的な「救済(Soteriology)」を説くものか。つまり、仏教は「救済(Salvation)」の教えなのか。もし、そうであるなら、その救済とはなんらの目的もないものなのか。
  2. 仏教は世界を誤った悪いものとして、人類にとって苦悩の源とみなしているのか。
  3. ニルバーナ(涅槃)とは、全面的な無関心の状態のことなのか。
  4. 仏教は無神論の教えなのか。つまり、神なき教えなのか。
  5. あなたは、仏教僧侶として個人的に、ニルヴァーナはキリスト教の人格的神のもとでの平和と比べて、低い精神的達成である、と信じているのか。

[編集者からの質問]

 こうした誤解が経験の違いによって起こること。また、これを解く下地が十分に準備されていない現状を認識しながらも、著者は「沈着な深い教え」を一つ一つ説明してゆく。
 まずは仏教は信仰や教条主義を廃し、信念ではなく精神的成長の方法を説く教えとして紹介している。

哲学として論じる立場もありますが、仏教は宗教であります。仏教の宗教的な意味は、人々に、高度に発達した不退転の様々な精神的成長の方法を、提示することです。しかし、仏教と他の世界的に広まっている宗教との違いは、仏教は“信仰(Faith)”にも、いかなる“教条(Dogma)”にも基いていないと言うことです。
 仏教は、すべての生きとし生けるもののために、様々な個人的、精神的成長の方法を示唆します。それは人間にとってのみのものではありません。仏教における精神的成長とは、私たちの心が不断によりよき生命態へと転成することであります。この最高のすがたがブッダ(仏陀)と呼ばれるもので仏教は世界観的な展望のみならず、その教えに従う者の日常生活に、真に宇宙的な洞察をも提示するのです。
 仏陀の教えとは、人間の行動、思考、言語活動やものごとの働きについての教えなのです。それは信念(Belief)ではなく知識(法)であり、ある絶対的な命令によるのではなく、さまざまな示唆(縁)によって働いていることなのです。このことは、仏教的観点の本質である相対性(縁起)の意味を、よくあらわしています。仏教は私たちに、何が善か、何が誤りかを絶対的なものとして教えるのではありません。また、絶対的規範にもとづいてある人間が善なのか悪なのかを、教えるものでもありません。仏教は私たちに、それぞれの状況、それぞれの存在、それぞれの出来事に、必然的にかかわっている肯定的なる要素と否定的なる要素を示してくれるのです。
 このいわばホロン的(Holon・・総合態)な観点により、私たちは差別的な見方から離れることができるのです。それはつまり、理性に反する何かを全面的に受け入れることや、無軌道に何かに戦いを挑む必然性を避けることができるのです。そこで仏教的観点は、普遍的な意味で寛容であり、それは因果の法則の理解にもとづいています。つまり仏教の中心とするところは、ものごとの生起について、それを起こらしめる勢力や責任についての洞察であります。

[信仰にも教条にも基づかぬ仏教]

 この中で、「理性に反する何かを全面的に受け入れること」や「無軌道に何かに戦いを挑む必然性」が、どういう教えを想定しているのか考えると、欧米文化にはかなり厳しい批判になっているだろう。

 そして、「仏教は世界を誤った悪いものとして、人類にとって苦悩の源とみなしているのか」という質問に関しては、世界そのものではなく、認識の誤謬が源であることを述べ、また、仏教は「救済(Salvation)」の教えではなく、自己責任における智慧の宗教であることが述べられる。

苦の原因、根拠は決してそれ自身にはありません。世界についての誤った見方が苦の原因であります。私たち自身と、同様にまわりの世界についての錯覚した受け止め方が、私たちの様々な行動について無益を引き起こし、私たちに望まない結果をもたらします。人間が悪いのでも、人間自身が苦の原因でもありません。苦は人間の無知(無明)によって、ものごとを錯覚する仕方によって引きおこされるのです。
<中略>
仏教は、ひとえに自己責任にかかわっておりますから、救済論と呼ぶことはできないわけです。ごく普通の経験でもわかるとおり、私たちは、いかなる人についても、その人自身を救済することはできません。智慧は教えがたいのであります。智慧は一歩一歩と、個人的に積み重ねられなければならないのは、人間の身体が生物学的成長をへて発達してゆくのと同じであります。

[自己責任としての苦]

 また、仏性のはたらきは法則によるものであり、人格神による不確定な要素はないということ、またそれが「精神的な成熟」を助け、仏陀との関わりを密にすることを述べている。

 仏陀は、永遠の過去に開発されていた宇宙的こころの状態であります。このこころの状態は仏性とよばれていますが、それにより私たちの精神的な成熟が助けられるのです。しかし私たちは、そのことについて知らなければなりません。また、このような仏性の助けを求めなければなりませんし、その法則について知らなければなりません。もし私たちが仏陀になりたいと決意し、真実に助かりたいと求めるならば、仏道を行じなければならないでしょう。それにより、私のこころが仏陀の力(仏力)に連結されるのです。

[一切のものの成仏の可能性]

 ただこの中で、「仏陀は、永遠の過去に開発されていた宇宙的こころの状態であります」とあるが、少し実体的にとらえすぎている感がある。現在回向されている信の中にこそ、はるか過去から現在まで願い続けられた仏陀の永遠性があるのではないだろうか。

 仏教においては、他の真実の宗教と同様に、もっとも重要なことは文字では現わせません。それは経験することで、ミスティックな(思議を超えた)ことだからです。不可思議の味わいのない宗教はありません。あれば、それは狭量な信念であります。宗教の目的は人間をしてその限界、限定を乗り越えることにあります。それはまったく、人間的な限定された知性によって達成されるものではありません。哲学的思索は人間のこころの所産であります。そこで哲学は、大学での学科のように学ぶことができるのですが、ほんとうの宗教は学習によってはほんの一部しか学ぶことはできません。このために、ローマ法王のように非常に献身的なキリスト教徒が仏教を理解することは困難なことに違いありません。なぜなら法王猊下は仏教を実践していらっしゃらないでしょうし、当然仏陀になりたいと思ってはいらっしゃいませんし、仏陀が自分のこころに触れて、そのこころを転じて欲しいと思ってはいらっしゃいませんし、仏陀が自分のこころに触れて、そのこころを転じて欲しいと思っておられないでしょう。

[経験の仏教]

 このように、「文字に依るべからず」という宗教の基本を紹介し、ローマ法王の仏教批判が的外れなものであり宗教的実践をともなわない軽率な行動であることを述べている。

 浄土真宗の導き

 第2章「み教えに導かれるままに」では、アグネス・エンジェエスカ女史自身の体験を通して教えが語られる。
 第二次世界大戦後のポーランドでは、国家体制としては共産主義化が進んだが、国民は統治に逆らいキリスト教を擁護する。しかし彼女は幼い頃から、キリスト教の説く教えに矛盾と疑問を感じていた

 もし神父さんが言われるように、神様がそれぞれの家にいる子どもの数を決めているのなら、なぜあの子ども達はこんな悲惨な状況の中にいるのだろうか。神様が創造主で、私達が神の生産物であるなら、私達が不完全だということでどうして罰しようとするのだろうか。
<中略>
 私が十四歳のとき、一人の尊敬できる女の先生がなぜこの学校にくるようになったのかと、私に尋ねました。「私はただ神を信じていないからです。」と簡単に答えました。「なぜ信じないのですか。」と彼女は聞きました。「それは神が存在していないからです。」と私ははっきり言いました。彼女は長いことじっと私を見ていましたが、そっとささやきました。「誰にもそのことを言わないように。あなたは正直そうだし、人々があなたの言うことを信じるかもしれないから。人々には生きるために神が必要なのです。とりわけ最近のわが国においては。だから誰にもそれを言わないと約束してください。」と、こういうことがあって私は宗教について考えることさえ止めてしましました。

[少女時代の私]

 この、「人々には生きるために神が必要なのです。とりわけ最近のわが国においては」という言葉は重い。激しい苦難の中では、人々は人格神による特別の恩寵を求めがちになる。そして、普遍的に満ちる法の受け入れを難しくする。
 しかし彼女は、仏教的な瞑想を行う縁に恵まれ、智慧を求め、そして念仏との出遇いを果たす。

すぐに「南無阿弥陀仏」が私を導いてきた「師」すなわち「力」の名前だと、はっきりとわかりました。喜びに満ちて昼も夜もその名前を称えました。
<中略>
「光顔巍巍・・」の讃仏偈のお勤めは、私の家のドアを開いたのです。私は長い長い旅のあとで我が家に帰ったように感じました。

[念仏し阿弥陀仏を語る人達]

 やがてポーランド浄土真宗の代表になった彼女だが、ポーランドで、浄土真宗はじめ仏教徒であることを宣言するにはかなり勇気が必要であること、つまり生活することも苦しくなる現状があることを紹介している。それでも改宗する人々もいるのだが、彼らにとって、仏教の何が魅力なのだろうか。

 一般的に、仏教の何が人々に引き付けるのでしょうか。「カルマ(業)の法則」によって、神という考えが置き換わることが、心に非常な解放感をもたらすのです。「業の法則」は、物事はすべてが予知できない神によるのではなく、自己の責任によることを教えているからです。次に悟りの中では、個々の我の人格が消え、真に仏としてのすべてのものを抱き取る心と、差別から自由になる心がもたらされるのです。
 仏教では人間に対して次のような言い方はしません。「私の命令に従って最善を尽しなさい。もし理想的な人間になったら地獄から救いましょう。もしならなければ地獄に行きなさい。」私達の苦の原因には仏様はかかわっていません。全部自分の責任です。このことがキリスト教徒には新鮮なのです。

[神からの解放の魅力]

 物事が起こるには因果の法則があり、そこにおいて自己責任を負う、ということは、私たちは余りにも当たり前の事実と認知しているが、この常識が新鮮に写るというヨーロッパの常識がある。しかし、この新鮮さが、真剣な求道心となるには、まだ時を待たなければならないということも指摘している。

 ヨーロッパでも人々が仏教の様々な教理綱目について論じているのをよく見かけますが、それは古いキリスト教の考え方によって仏教を論じているにすぎません。ヨーロッパ人には仏性を自己の本性であると認識するためにはかなりの時間と行が必要です。多くのヨーロッパの仏教徒は知ることと、行じたり感じたりすることのギャップを感じています。

[神からの解放の魅力]

 さらに、浄土真宗の本意を伝えにくくしている原因に、翻訳の不備があることを指摘している。

ヨーロッパ人は盲目的な信仰や、献身、死後の約束された世界ではあきたらなく思っています。言語は非常に大切です。新しいことを伝えるのに使い古された、つまらない間違った用語法を使ったのでは正しく伝えることはできません。
<中略>
 こういう都合の悪いことが、浄土真宗が誤解され、間違って受け取られてしまうのです。そして親鸞聖人によって述べられた、非常に深い究極の普遍的な仏教の性格を、広く西洋人が発見するのを難しくしているのです。

[翻訳用語が生んだ誤解]

 この誤解を解くには、信心と信仰の違いを示す必要があるが、ここでは仏教における信心の重要性と、獲得のための条件(親鸞聖人と同じ条件)を三つあげている。

 この“信心のみ”というのは、“信仰(Faith)”のみというのと違います。“信心”のみとは、浄土真宗と言う教えを最も普遍的なものにしています。言語、伝統、個人の知性が違っても、親鸞聖人と同じ条件を持つ人は、信心を得ることができます。どういう条件かというと、一つには、悟りを得ようという決心をしていること、二つには、自分の努力では悟りに達することは出来ないとはっきりわかっていること。三つには、阿弥陀仏を信頼していることです。

[信心一つ]

 さらに、念仏(現生正定聚)の利益を5つほどに略して紹介している。(詳細は、{真実の現世利益は現生正定聚の益} 参照)

念仏は次のものを私達にくださっています。一つには、阿弥陀仏の大悲の保護があります。そしてそれは至る所を照らして私達にわからせてくださるのです。二つには、阿弥陀仏を誉め讃える仏様方によって守られます。三つには、最高の涅槃に至ることが保証されています。四つには、超越的にその世界を私達に経験させることが出来るように、私達の心を変えていくのです。五つには、すべてのものは同じ味わいとなるのだとわかります。(すなわち差別心の消滅です)。

[信人定まるとき]

 また、全面的に本願を信じ、他力の名号とともに生きる喜びが語られる。

 親鸞聖人は、私達が死後に到達すると約束されている国について話したのではなく、信心の瞬間に、浄土を今、生きることを味わうように、私達に勧められたということが非常に重要です。

[他力念仏の勧め]

 そして、「念仏は一番劇的で、早く効果が味わえ」る仏道修行の中であり、その理由は念仏が如来の行であることが明かされる。この本来性を味わうには、自力の限界を打ち破る必要があるが、自力と他力の関係についても明確な味わいが示される。

自力念仏と他力念仏の区別は私達の煩悩によって起こります。煩悩が仏さまによって十分溶かされていないうちは、自力念仏を信じるかも知れません。しかし信心の瞬間に、念仏は悟りや無我と一つであり、念仏の中に自力はまったくないのだ、ということが明らかとなります。

[称えせしめたまう念仏]

 教学理解と現状

 第3章「ポーランド人と日本人による浄土真宗理解」では、著者が日本に来た時からの思いが綴られている。
 彼女によれば、浄土真宗は「理解することが非常に難しいけれど、最も重要な仏教の教え」であり、この教えを何らかの形で守り支えてきた日本に敬意を表している。

 私は、いつかきっと世界中の人々が浄土真宗を大切に守ってきてくれた日本という国に、非常に感謝するであろうと確信しています。浄土真宗は、この末法濁世の時代に悟りをもたらす唯一の仏教の教えとして、親鸞聖人によってあきらかにされたのです。名号(南無阿弥陀仏)の素晴らしさは親鸞聖人の信心の味わいの中に、すでに述べられています。

[浄土真宗を大切に守ってきた日本]

 しかし、この第2章で語られた日本への思いは、第3章では日本の現状に警鐘を鳴らす言葉となっている。

あるお寺の門徒の集まりの時、仏教の一番のゴールは何でしょうかと、かつて私が尋ねました。たった一人年配の男の方が、私達が仏に成ることだと、知っていただけでした。ほとんど大部分の人はこの世においてなにもしないで、肉体の死後は阿弥陀仏の浄土に生まれるのが宗教のゴールだと信じているのです。それぞれの宗教の間に特別な違いも認めず、子供達が新しい宗教やキリスト教に入っても気にもしていません。生きている今は、念仏から何ものも期待することはないと信じているみたいです。

[日本仏教徒の現状]

 念仏は生きているこの身の問題であろう。この法灯が伝え切れていない日本の現状に対し、著者は「肉体の死は即得往生とは関係ありません」と断じ、「あなたは・・・」と問う。

 あなたは、私の父のように来世で信心を願いますか、それとも多くの教養人として同じく寂しい未来を願いますか。いやそれとも一部の人が願っているように、今すぐ出来るだけ早く信心の身になることを望みますか。それはあなた次第です。あなたが心から浄土を願わないかぎり、阿弥陀仏があなたの心に入って、それに浄土をこしらえ得ることは出来ません。しかし、もしあなたが名号を呼べば、阿弥陀仏の偉大な力が、あなたとともにあるでしょう。あなたがそれを感じていないだけです。

[あなたは・・・]

 以上のように、ヨーロッパにおける仏教理解の様子と、日本の仏教界についての批判が垣間見られるこの本は、実に貴重な一冊といえよう。
 しかし、全体として「諸法無我」の領解の甘さは否めない。特に輪廻を実体として捉えてしまいがちな面もあるので、その点は注意を要するだろう。({業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か} 参照)

[Shinsui]


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