一般にはなじみの薄い「納棺師」という仕事を正面からとらえた作品。死別にからむ重い題材だけに、映画として成立させるのは難しかったはずだが、様々な泣き笑いを交え、心温まる作品に仕上がっている。
チェロ奏者だった小林大悟(本木雅弘)は、オーケストラ解散のあおりを受けて妻の美香(広末涼子)とともに故郷の山形に戻る。さっそく求職に回るが、「高給保証」「旅のお手伝い」の広告につられて面接に行くと、仕事内容は「納棺」。遺体を棺に納める仕事だった。尻込みする大悟に社長の佐々木生栄(山崎務)は有無を言わせぬ迫力で採用を決定し、さっそく翌日から出勤するのだが、最初の納棺の仕事は、死後2週間経過した孤独死の老人を棺に納める仕事だった。
こうした様々戸惑いがある中でもやがて納棺師の仕事にやりがいを感じてきた大悟だったが、ついに妻に仕事のことがばれてしまう。妻には「冠婚葬祭の関係」とだけ伝え、納棺のことは黙っていたのだ。
「汚らわしい!」と言い残して実家に帰ってしまった美香を待ちながら、大悟は黙々と納棺の仕事に精を出していたが……
この映画、何といってもキャスティングが良い。主演の本木雅弘は企画の発案者であり、戸惑いと誠実さが絵になる役者だ。また山崎務の納棺師ぶりは本当に板についていたし、富樫家喪主役の山田辰夫は、妻の死に直面した夫の心痛が画面から溢れていた。それに、遺体役の人たちの死体にぶりも素晴らしい。身体を拭かれる際など、よく動かず耐えたものだ。こうした磐石の役者陣を配した上で、納棺の儀に際して起こる様々な人間模様が美しく演じられてゆく。もちろん映画ゆえ多分に演出的ではあるが、納棺が心つなぐ儀式のはじまりであることは事実であろう。
印象に残った場面としては、まず食事にまつわるシーン。孤独死老人の納棺を終えた日の夜、鶏肉が「鶏の遺体」として見えてしまったり、NKエージエント社長が「死ぬ気になれなきゃ食うしかない……困ったことにな」と言って白子を頬張ると、生死が実に表裏一体のものである事実が浮かび上がる。
また、納棺師に対する偏見には心が痛む。妻は「汚らわしい」「ちゃんとした仕事に就いてよ」と反発するし、娘を事故死に巻き込んだ暴走族に対して親は「この人のような仕事に就いて一生罪滅ぼしするか?」と詰る。こうした偏見は理解不足からくるものだ。伝統的には身内の納棺は家族で行ってきたものなのだから、大切な伝統を守って頂けることには感謝はすれど差別などもっての他だろう。
さらに、ラストに登場する「石文」には泣かされる。大昔、人々がまだ言葉を知らなかった頃、遠く離れた恋人へ自分の想いに似た石を探して送った……もらった方は、その石をギュッと握りしめて、その感触や重さから遠くにいる相手の心を読み解く=Aこれが石文だ。
何て素敵な風習なのだろう。かつて星新一は「言葉がどれほど愛情を薄めているだろうか。人びとは言葉なくして得た愛情を、必ず言葉によって失っている」と書いたが、石文ならば愛情は薄まらずむしろ濃くなるかも知れない。
映画の原典は間違いなく「納棺夫日記」(青木新門著)のはずだが、これが原作とは記されていない。それは本を読めば解るのだが、青木氏は宗教に対して一家言を持ってみえ、かなり具体的な提言があるからであろう。特に親鸞聖人の深く明快な信心に心惹かれてみえるが、これを映画で語れば「宗教体験作品」となるからだ。
私は「おくりびと」とは別の、「納棺夫日記」を原作とうたえる映画かドラマを撮ってほしいと願う。