これは人間の習性と言うべきだろうか。凶悪な事件を見れば自分たちはそうした物事とは遠く離れた位置にある≠ニ思い込もうとするし、高潔な偉業を見れば自分たちはそうした物事の中心に位置する≠ニ思い込もうとする。
だが現実は、どんな民族も凶悪で卑劣な面をかかえている。なぜなら人類は常に闇をかかえながら文明を創造してきたのであり、その業は深く私たちの心身に刻まれているからだ。しかし同時に、どの民族も高潔で善良な面も持っていることを忘れてはならない。なぜなら、本来は誰もが闇を正直に見つめる勇気を持ち、悲歎の中でも人々と共感し、新たな文化を生み出す力を持ち合わせているのだから。
スピルバーグ監督作品『ミュンヘン』は、監督自らの立場でもあるユダヤの歴史と真正面から向き合い、報復の繰り返しの歴史に哀嘆の思いを馳せているようだ。この映画のテーマを「平和への祈り」と自ら評し、「互いの歩み寄りがないこと」を和平最大の敵とした監督のメッセージには大いに感銘する。こうした勇気ある試みこそ「表現の自由」と呼ぶのだろう。最近問題となっているムハンマドの風刺漫画掲載の騒動とは次元を異とする試みといえよう。
オープニングは、パレスチナゲリラ“ブラック・セプテンバー(黒い九月)”が塀を乗り越え、オリンピックの選手村に侵入するシーンから始まる。
1972年9月5日。ミュンヘン・オリンピック開催中に起きたイスラエル選手団襲撃事件は、犯人はもとより、人質となった選手ら11名も全員死亡するという最悪の結果に終わった。当時は全世界から同情を集めたイスラエルだったが、ゴルダ・メイヤ首相は報復を決意し、モサド(イスラエル機密情報機関)に暗殺チームを編成させ、テロの首謀者11名の殺害を企てる。
この<神の怒り作戦>のリーダーに任命されたアブナーには妊娠7ヶ月の妻がいる。作戦は秘密裏に行うため家族や祖国は捨てなければならない。悩んだ末、彼は命令に従うことを決意する。
最初の標的はワエル・ズワイテル、次にマフムッド・ハムシャリと、ほぼ計画通り殺害するが、次第に周囲が騒がしくなり、任務に対する不信感も募ってくる。
まずは、一人を殺害しても組織内で以前より強硬な後任が現れること。際限ない復讐に意味はあるのか、という不審感が募る。また暗殺対象の人間やパレスチナ系テロリストたちと会話をする機会を得、彼らがごく普通の理想を求める人間たち≠ナあることに気付く。さらには爆破の際の不手際やグループ内の意見の対立、ターゲット以外の人間にも多大な犠牲者が出るなど、次第に作戦そのものに対する不信感や絶望感が大きくなっていく。
そんな時、この作戦に対し外部組織からの妨害が入る。既に<神の怒り作戦>は秘密の作戦ではなくなっていたのだ。やがてチームのメンバーが一人二人と殺害されてゆく。追う側から追われる側になった恐怖に怯えるアブナーは……
この映画の製作意図は明らかだ。イスラエルやユダヤの歴史を愛しながらも、中東和平が進まない原因を自らの国の歴史の中にも見出そうとする監督の試みである。そしてその結論は余りにも明らかな真理、報復の繰り返しに対する批判である。これは最後のシーンにも象徴的に表れている。
しかし、イスラエル、パレスチナともに、政治的背景を持つ人たちからの評価は厳しい。
イスラエル側からの不満は、映画を通じてパレスチナ側の声明を披露する機会を与えてしまったこと、アラブ・テロリストを人間的に描きすぎている点などで、イスラエル紙「ハアレツ」は、「原作ともども誤った歴史認識に基づいている」とさえ断じている。
またパレスチナ側からは、「ミュンヘンはイスラエルとパレスチナの関係修復には役立たないだろう(Daoud氏)」との声明があがり、特にミュンヘン事件の前後に多くのパレスチナ市民が殺害されたことを指摘。「シオニスト側だけに与[くみ]している」と、スピルバーグのイスラエル寄りの姿勢を批判している。
つまり、パレスチナとイスラエル双方から、スピルバーグは相手側に寄り過ぎだ≠ニいう評価が下されているのだ。
おそらく当事者となれば、自分や自国の過去は全て善と断じたいし、対立する側の手柄や言い分は認めたくないのだろう。血の報復が絡めばなおさらだ。
こうした問題が起これば、仏教徒であれば――
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息[や]むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。『ダンマパダ』仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである。
(仏所遊履国邑丘聚靡不蒙化天下和順日月清明風雨以時災レイ不起国豊民安兵戈無用崇徳興仁務修礼譲)『仏説無量寿経』
等の言葉が真っ先に思い出されることだろう。世界の幾多の宗教の中でも、これに類する言葉を見つける事は可能なはずだ。
本来ならば報復を是とする宗教は既に宗教とは言えない。早く報復の応酬を回避しなければ、それこそ宗教の名が廃るというものだろう。政治的思惑を離れれば、市民の中からは賛同の声も多く聞こえるという。ここに希望を託したいと切に願う。