殺人が起こるはずだから犯行前にその殺人犯を捕まえる、なんて、「全く荒唐無稽な設定だ」と、ひと昔前なら笑えただろう。しかし、映画『マイノリティ・リポート』が見せる世界は、下手をすると「未来を言い当てた映画」と絶賛されかねないのが現状である。
12月7日(土)、この日は忘年会と、K-1の放送と、そして『マイノリティ・リポート』の公開日が重なっていた。仕事が早く済んだため、まずは映画館に向かう――とその時、ふと傘が必要な気がして家に引き返した。まだ小雨も降っていないし、誰も傘を持ち歩いていない状況なのにである。
「いきなり何で傘の話だ?」と疑問を持たれた方は、まだこの映画を見ていない証拠である。
それはさておき、人は大方、近未来をある程度予想しながら生きている。ただその予想は、過去から現在に向うベクトルの延長線上に想像するだけで、確定した未来を見る訳ではない。
この映画は西暦2054年のワシントンD.C.を予想して作られているが、ここでは、未来を予知する能力を持つ3人のプリコグが殺人を未然に防いでいた。
ジョン・アンダートンは、プリコグたちが「目撃」した未来殺人の映像を分析し、犯行現場に駆けつけ未然に「犯人」を逮捕するチームの主任刑事だった。この犯罪予防局を全国に拡大するかどうかの国民投票が迫ったある日、司法省のウィットワーが「人為的ミス」の探査のため、プリコグの居る聖域に強引に進入する。不審に思ったアンダートンは、ともに聖域に入るが、そこで突然、プリコグの一人アガサにしがみつかれ、アン・ライブラリーという女性が溺死した事件の映像を見せられる。事態打開のため局長のラマー・バージェスに相談するアンダートン。局長は余裕をみせながらも司法省のウィットワーに注意するよう指示する。
局に戻ったアンダートンだが、そこで驚くべき予知映像を見る。自分が殺人者として特定されたからだ。アンダートンは被害者となるリオ・クロウとは全く面識はない。しかし自分が殺人犯として特定されたからには、このままでは逮捕され冷凍保存処置されてしまう。ウィットワーの陰謀であることは予想がつくが、とにかく逃げるしかないのだ。
ここからは、ハリウッドお得意の追いつ追われつの猛レース。やがて、<3人のプリコグの出した未来のビジョンが2対1で違っていた場合、マイノリティ・リポート(少数報告)は棄却される>という、冤罪の可能性がある事実を知る。
自分が殺人犯でないビジョンを、プリコグのアガサの脳から直接ダウンロードするため、アンダートンは犯罪予防局に潜入する計画を立てる。そこでモグリの医師ソロモン・エディに違法な眼球交換手術を任せるが、彼は昔アンダートンが検挙した「殺人犯」だった……
先にも述べたが、未来予知と未来予想は全く違う。誰もが多かれ少なかれ未来を予想をして生きているが、未来予知は確定できるはずがない。もし未来予知が可能なら、未来は確定していることになり、人が迷い努力して生きる意味は失われてしまう。未来は現在の私たち一人一人が創造してゆくものであり、運命は一瞬一瞬の決断と、それをに促すアラヤ識の変換によって変えることができる。余程人々が意志薄弱でない限り、未来は無限の可能性に満ちているのだ。その意味では、プリ・ビジョンは無限にあってしかるべきだろう。
私が傘を持って映画に出かけたのも、体感的な無意識の予想であったろうし、K-1の結果も脱税騒動も人の営みの果ての話である。まして私がこの日の忘年会で二日酔いに「ならなかった」なんて、自分でも想像できなかった……ただ現在を過去の必然と受け取るなら別だが。
それでも、この映画で予想された未来は多くの示唆に富んでいる。特に、網膜IDで個人を認識するシステムは、技術的には既に実現可能である。「犯罪防止」という大儀が誇張されれば、いずれ実用化さるだろう。ただ映画を見た観客はこれが稼動した時の超管理社会の居心地の悪さを体験することになる。
さらに、スピルバーグ監督の底辺に流れている「家族の再生」というテーマも健在で、息子を失った夫婦が、心の傷をいかに乗り越えていくか、という課題も盛り込まれている。ただこちらのテーマは付け足しの感があり、映画の後半の冗長さを目立たせてしまった。
ところで、増加する殺人事件に対処するためには、未来予知は荒唐無稽としても、管理社会の全面的な受容以外に方法はないのだろうか。
思うに、どうもアメリカ人には一つ大きな視点が欠けているような気がする。「殺人犯罪を減らすには、銃を取り締まるのが一番だ」というの説。私のマイノリテー リポートであるのだが。