「生きてりゃいいんだよ。生きてりゃ!」
生命力溢れるエロじじい$寥エ卯三郎(大滝秀治)の台詞と歌のパワーが全てを語っていたように思う。社会が今ほど複雑になる前ならば皆こう言ってアルツハイマー病の悩みなど吹き飛ばしていたことだろう。野生に生きてきた我らがご先祖さま方は、約束の時間に少々遅れたり忘れたりしても、ああ、そうか。忘れるようになったのか≠ニ皆が認め、そのまま群の仲間として受け入れていたはずだ。
ところが現代人は、自分や家族が認知症になることを極端に忌み嫌う。そして脳に良い食事を求めて情報を得、脳を活性化するクイズやゲームに飛びつく。それだけ現代社会は脳の理性面を酷使する生活を強いているのだろう。
主人公の佐伯雅行(渡辺謙)はまさにそうした一刻一秒に生きて仕事をこなしてきた現代人の代表だ。責任感を持ち、打合せは15分前には着き、仕事はびしっと決める。周りからの信頼も厚い。「上司にしたいナンバーワン」に選ばれそうなキャラクターである。
こうした現代を代表する会社人間の佐伯部長が突然アルツハイマー病に罹った。打合せ時間を忘れる。個人名が思い出せない。慣れていたはずの道に迷う……。単なるど忘れ≠ナは済まされない状況に本人も同僚も戸惑ってしまう。彼が中心となって準備していたプロジェクトはいよいよ架橋に入っていたのだ。映画の前半は、この認知症と会社の問題に焦点が当てられている。
結局、病気は皆に知れプロジェクトから外される佐伯、やがて依願退職。映画後半は介護と家族の問題に焦点が当たる。実はここにも現代社会ならではの難しい問題が浮かび上がってくる。個人主義的な環境が介護の大変さを際立たせる結果になっているのだ。具体的には、核家族化によって介護を担う人数が少なくなり、特に夫婦だけだと患者が孤独に過ごす時間が多くなるのだ。
患者は頭の中の記憶は消えていくが、失望したり悲しみの感情まで消える訳ではない。次第に疑心暗鬼になって妻を殴ってしまった佐伯は、自分のしたことに驚き、悲しみを露わにする。こうなるともう妻(樋口可南子)は絶望の淵に立たされてしまう。
やがて陶芸教室でも裏切りにあった佐伯雅行は、作りかけの湯呑を持って思い出の地である日向窯に向う。そこには若い頃の妻が幻となって寄り添い、窯の主人だった菅原卯三郎も偶然現れる。
「焼こう!」と佐伯に命じる菅原は、先の「生きてりゃいいんだよ」という台詞を吐く。そして佐伯の未来を暗示するかのように住めば都〜≠ニ、絶妙のアドリブで「東京ラプソディ」を歌う。
果たしてこの菅原は現か幻なのか、観客は理解に迷うところだが、どうやら現実らしい。だが佐伯本人にとってはどちらでも構わない問題だろう。客観的事実以上に重要なのは見えたものをどう受け入れるか≠セからだ。
認知症がなんだ。皆いずれ呆けるか、呆ける前に死ぬんじゃないか≠ニでも言いたげな宴は、やがて住めば都≠ナある地に向って動き始める。
それにしても、原作にほれ込み自らエグゼクティブプロデューサーとして作品全体を引っ張ってきた渡辺謙の演技は見もの。認知症を扱った数ある映画の中でも出色の出来だった。