[1988年1月公開/監督・脚本:伊丹十三/出演:宮本信子、三國連太郎、洞口依子、津川雅彦 他]
巨大建築のプロジェクトが始まる様子を、金網越しに見つめる査察官達。その土地こそ、宗教者、政治家、不動産会社、暴力団、銀行が複雑に絡まり、無責任な欲望と暴力のドラマが展開された現場であった――映画はこんなシーンで幕を引く。
最後まで正義が達成されない実に後味の悪い映画で、ロードショー当時「異常な宗教や地上げ問題を丹念に追った作品」として評価は高かったように思うが、観客はある種あきらめに似た気持ちでこの映画を鑑賞していた。
しかしバブル経済崩壊後、国民の誰もが「まさかここまで異常だとは思わなかった」と、想像を絶する事態を目の当たりにしてその元凶を探すとき、まさにこの「マルサの女2」に描かれていた悪行の後始末を今しているのだと気付く。
それもこれも「宗教心無き宗教団体」「金銭感覚無き金融業界」の乱行の結果で、関係者は「自業自得」と罵られても仕方ないが、とばっちりを受ける中小企業や国民はたまったものじゃない。
◆ 〈何か変だゾ〉と思っただけ
皆〈何か変だゾ〉と、あの頃も思った。
皆〈何とかしなければ〉と、あの頃も考えた。
問題点は明らかに銀行の過剰融資だった。それも人間に投資するのでも事業に投資するのでもなく、単に「土地」というそれ自体はただの平面であるものに、「土地神話」を信じ、国民の汗水たらして働いた金をつぎ込んでいったのである。
今となっては、当時の狂乱がこの底の見えない大不況の入り口だったと、誰の目にも明らかなのだが、その問題点を正面切って描いたのは、この「マルサの女2」だけだったのではないだろうか。しかし「こんな自分たちでいいのか?」との問いかけには、「おかしいけど仕方が無いさ」と、誰も真剣には耳を貸さなかったのではないだろうか。
また当時観客の関心は、地上げで住居を追われる住人たちへの同情であり、そこに自分達の金が湯水のように使われていた問題には余り注意は払っていなかった気がする。その理由は「土地の値は下がることは無い」という思い込みがあったためだろう。思えば皆、愚かな選択をしたものだ。
ところで、現在の私たちは当時の無策を笑えるだろうか――
やはり〈何か変だゾ〉と、感じている今の私たち。
やはり〈何とかしなければ〉と、考えている現在の国民。
未来から金を借りるような政策、限定された減税や公共投資による景気刺激策といった小手先の政策で国が立ち直る訳がないことは、常識で考えても分かる。今の無策が後の破綻につながる、という単純な図式をまた踏襲するのであれば、国も国民同志の信頼も失われ、非情で冷徹な弱肉強食の時代が到来する可能性が高い。
本来ならそうした不信の時代に本当の信を説くのが宗教者の役割なのだが、新旧の各宗教教団に対する信頼や期待も高いとは言えない。そうした実体もこの映画のもう一つの大きな問いかけになている。
◆ 皮肉な名作
「大衆映画はハッピーエンドにするべきだ」と、盛んに生前述べていた監督も、この作品だけはその態度を貫けなかった。「マルサの女」では、自らの血で隠し口座の番号を教える場面が印象的だったが、そうしたぎりぎりの人間味が「2」には無い。山が崩れ落ちるイメージ映像が余りにも似つかわしい当時の日本である。
そしてそのイメージから逃れられない日本の姿がある限り、皮肉にもこの映画は名作として今後も光を放ち続けるだろう。