とことん落ち込んでいる小学生が近所にいたら、あなたはどうやって慰めるだろう。同情の言葉は禁物である。北野武がそうした人たちに久々に送る“ 心温まる映画 ”がこの『菊次郎の夏』である。
おそらく北野映画の中で見せる「日本人に最も身近なたけし像」がそこにはある。『その男凶暴につき』以来、TVとは全く違った“北野ワールド”に魅せられてきた人たちにとっては、拍子抜けするくらい「暴力」と「死」が欠如して、多少食い足らなさを感じるかも知れない。しかし、それを補って余りあるのが「男の無茶な愛情表現」だ。
監督作品第4作の『ソナチネ』が、いわば「何も無い世界」を描ききった映画とすると、それ以来北野は「限りなく何も無い世界から一粒の生きている種を見つめる」ような製作態度になっているのだろうか。この映画でも、ソナチネで見せた「暇な男の戯れ」のシーンを思い浮かべることができるが、子どもが入ると似て非なるものになる。
たけしなら、いかにもやりそうな子供のあやし方が随所に出てきて、ギャグのオンパレードの感もあるが、ベースに子供のやりきれない想いがあるため、笑いが必要不可欠になっている。見ている方まで“ 何とか子供を元気付けよう ”という気にさせられる。
前回の『HANA−BI』で妻役だった岸本加世子は、今回も主人公の女房役で出演しているが、随分“あばずれた女”になって登場する。彼女はうまい役者だが続けての登場だし、前回の消え入りそうな薄幸の女のイメージが強烈で、生活力をつけて堂々と街を闊歩している彼女の姿は、見ている方は何故か落ち着かない。
この女房が、夏休みに一人ぼっちで寂しくしていた正男(9歳)を母に会いに行かせようとしたところから物語りが始まる。
旅費を渡された菊次郎は子供の母探しには興味なく、早速ストリップに、キャバレーに、競輪に足を運び、一文無しになってしまう。そこからはまるで“電波少年”のようなヒッチハイクが続くが、違うのはその強引なところ。脅したり、類人猿(?)のようにけんかしたり、目が見えないふりをしたり、タイヤをパンクさせて「手伝って乗せてもらおう」としたり・・・という、かなりアクティブなヒッチハイクだが、何とか母の住む家まで辿り着く。
しかしそこで見たものは、子供にとっては厳しく切ない現実だった。
後半は、傷ついた正男をいかに立ち直らせるかが焦点になる。ここからはTV流の軽いギャグも何故か物悲しく重く響く。そして「もっとやれー、もっと下品でもいいぞー」と、グレート義太夫や井出らっきょにも観客は心の中でエールを送ることになる。
ご存知のようにこの映画は「カンヌ映画祭」に出品され、無冠ながら絶賛を博した作品だが、これを出品するのはかなり勇気が要っただろう。ひとつ間違えば完全な駄作になりかねないギリギリのバランスの上に成り立っている。ベネチア映画祭では今までの集大成ともいえる『HANA−BI』だったから称賛は予定通りだったろうが、この『菊次郎の夏』は新たな世界で勝負している。もちろんTVではおなじみの下町風の笑いだが、これを映画にするのは、けっこう冒険だったのではないだろうか。
それにしても、下品なギャグもシチュエーションによっては感動を呼ぶ行為に見えるのは不思議である。下手な慰めや同情が意味を持たない人には、こうした無茶苦茶な男の突き放したような愛情が効くのだろう。なぜなら正男こそ菊次郎の過去そのものであり、この夏の旅は、孤独な菊次郎自身が背負ってきた過去から卒業する儀式でもあるのだから。
北野監督の作品は、見終わってしばらくしてから“ じわじわ ”とくる。それが人によって感動であったり反感であったりするが、この作品に限っては多くの人が共感を覚えるだろう。その理由のひとつには、おそらく関口君(正男)の風貌にある。
この子役、演技もうまいが圧倒的にルックスが良い。ここで良いというのは落ち込んだ子役としてである。だってこの子、近所のあのおっさんに似てないですか? 皆さん、