平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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人間味あふれる北朝鮮兵士が韓国映画に登場、というだけで事情を知る人たちには驚きである。2000年6月に行なわれた南北頂上会談がなければ、「非現実的過ぎる」という意見に圧倒され『JSA』はこれほど注目を集めることはなかっただろう。
しかしこの非現実を拡大したい思いと、その過程で起る様々な混乱を思うと、統一に踏み出せない双方の事情が垣間見れる。この映画はそうした過渡期の夢と、過酷な現実の狭間に咲いた小さな花とも言える。
ある晩、南北朝鮮分断の象徴「板門店」の共同警備区域(JSA)で小規模な銃撃戦が起った。北朝鮮の兵士2名が犠牲となり韓国の兵士1名が足を負傷。この事件をめぐり、北と南の主張は真っ向から対立する。
真相解明は南北両国同意のもとスイスとスウェーデンの中立国監督委員会に委ねられたが、取り調べを行なうのはソフィー・チャン、彼女は韓国籍の父をもつスイス軍の女性将校だった。
取調べを進めるうちにソフィーは、弾丸の数と現場の状況が違っていることに疑問を抱き、事実をつきつめてゆく。特に北の兵士に向けて撃たれた一発が誰の手によるものか、そして消えた弾丸の行方を追う。
真相は意外にも、<彼ら南北の兵士は常々交流をもっていた>ということであった。
それは韓国軍のスヒョクが地雷を踏んで身動きできずにいたのを、北朝鮮軍のウジンとギョンンピルが外してくれたことをきっかけにし、その後、北の歩哨所でスヒョクの弟分ソンシクも交えて交友関係が続いたのだった。しかしそうした人間的な交流は、歩哨所の扉が外側から開いた瞬間に破られる。
ソフィーは証拠をそろえソンシクを問い詰めてゆく。しかし彼はその追求に耐えかねて突然自殺してしまう。また、その追求現場のビデオを見たスヒョクが口を割ろうとした瞬間、ギョンピルがスヒョクに襲い掛かり最終尋問は中止になる。
「君はまだ板門店を知らない。事実を隠してこそ、平和が保たれる」――交流が善とされる人間的な価値観と、それを重罪とする論理の狭間で、曖昧な解決を望む双方の思惑がからみソフィーに解任が通告される。そして同時に彼女の父親もやはり南北分断の歴史を背負い、辛い選択をした一人だったことを知る。
解任前日の夜、彼女は最後の賭けに出た。スヒョクはそれに応じ真相を語り始める。しかしそれは彼にもうひとつの辛い真相を思い起こす引き金となり、さらなる悲劇を生むのだった。
映画を観ると、日本と韓国には一定の共通点があることに気付く。エンディングの悲劇は「それでもなお生きるべき」という声を恥とし「名誉を守るためには死すべき」とする文化だ、しかし、この映画の本質は、むしろ相違点の方にあるといえよう。
南北朝鮮は何より分断された国家だ。「アメリカ帝国主義の手先」と罵倒する北朝鮮政府への反発と忸怩たる思いが韓国にはある。日本との関係も表裏があり、さらに国禁を犯してまで人的交流を図ろうとする若者、それを支持する一定数の国民。民衆が扇動し政治を動かした自負もある。
作品は重いテーマを踏まえながらも、映画としてのエンタテイメントを存分に発揮できる企画で、シナリオの練り上がりもできている。特に中立国スイス軍の女性将校ソフィーの存在は重要で、ある意味彼女の感情や行動の変化がこの映画の軸と言えよう。これによって、男の汗臭い友情に終始しがちな作品を、優美に、しかし毅然としたテンポで描くことに成功している。
また、役者として断然光っていたのは北朝鮮兵役のシン・ハギュンで、際どいやり取りの中、彼の動揺したり感激したりする姿が人間的な交流を象徴している。そしてその彼が真っ先に犠牲になるというシナリオであったからこそ、後の悲劇を必然的な結末とみなすことができるのである。
さて、最近の韓国映画の成功は国家的な保護と巨大資本投入が後押ししているが、製作サイドもより広範な成功を意識して撮影しているようだ。日本の映画界が作品の芸術性と映像趣味に偏り、観客の裾野を広げる努力を怠ってきたのとは大違いである。俳優の育成も残念ながら日本は韓国に遅れをとっている。
おそらく今後の韓国映画は、観客動員数を誇れる作品を生み出す方向に行くだろう。ある意味ハリウッド的な発想だが、独自性さえ失わなければ成功が期待できる。