「日本の伝統」と聞くと多くの人は、規則に縛られた、閉鎖的で古臭く、しぶく陰気なものを思い浮かべる。それゆえ現代人は普段こうした伝統とは距離を置き、世界中から届く明るい文化・ファッションに現を抜かし、マスコミから垂れ流される狂乱文化に毒され、派手で独断的で怪しげな占い師の戯言を気にして暮らしている。
すると時々、こんなことを言う奴が現れる。
「俺たちは日本人だ。日本の伝統に従って生きるべきだ。日本の伝統は世界に類を見ない程洗練されていて、高度なひねりが利き、全てが精神的だ」と。
普段、地に足のついていない生活をしていればいるほど、こうした脅しには簡単にひっかかる。そしてその言葉にだまされ、一気に日本的≠ネ生活を始めるか、本当は伝統を重んじなければいけないけど≠ニ心に鬱屈としたものを残しつつ、以前と変らぬ狂乱に明け暮れる。
一体私たちは、どこに足をつけて、どの場所に立って歩めば良いのだろうか。日本の伝統的な文化を奉って歩むのか、現代の狂乱に身を置いて日々を歩むのか。
岡本太郎はこの『日本の伝統』という書で、現在「伝統」と崇め奉られている文物には選定に問題があり、対西洋コンプレックスの裏返しで急ごしらえされたものだったこと。そして日本の伝統は本来、荘厳華麗で色彩豊かであり、それでいて常に先進性に富んでいることを示す。
さらに「伝統主義者」に対して、太郎は手厳しい批判を浴びせる。
[伝統とは銀行預金のようなものか]より
本当の伝統とは、常に新しく創造していくものであろう。私たちはそのような、常に輝かしいものであるからこそ過去の伝統に敬意を示し学ぶのだ。それも日本の伝統だけではなく、世界中の文化全てを手当たり次第に学ぶ。そして過去の伝統に留まらず、伝統を糧として、今日我々の目の前にある課題に取り組んでゆくことになる。
[裏側文化]より
岡本太郎はこうした前提を示した後、縄文土器の空間感覚、尾形光琳の純粋性、中世の庭園の豊かさ等を具体的に示し、形骸化した伝統観に一石、それも巨大な岩石を投じている。
縄文土器については特に、岡本太郎によってその芸術性が見出された良き例だろう。以前は野蛮な時代の土器£度の認識だったが、氏によってその荒々しさ、緊張感、純粋性、根源性、驚くべき空間性が発見され、大々的に脚光を浴びることになる。そしてこの書ではその呪術性・宗教性にまで触れ、強い神秘的美観の根底に<犯すべからざる神を殺す>というドラマが隠されているのではないか、と指摘する。
また尾形光琳については、太郎が日本の伝統の弱々しさに絶望し、抽象芸術に身を投じていた時期、ふと見た「紅白梅流水図」に感動し、一概に伝統を切り捨ててはならない事実を突きつけられたのだという。そして<すこしも脆弱ではない。はげしく、たくましく、単純でするどい>完璧な美がそこにある、と感嘆する。こうした美を発見できたのは、岡本太郎が常々<抽象画の造形性の問題>を問うていたからこそだろう。問題意識の無い人間にはこうした新たな発見をすることはできない。この問題意識は芸術のみならず、あらゆる文化、特に宗教においても必須なのである。先人たちの築いた伝統にどっぷり浸かっているままでは、新たな文化を打ち建てるどころか、伝統の本質さえも見出せないだろう。
最後の中世の庭園については、具体的で微に入り細をうがつ研究が述べられているが、もちろん岡本太郎の真っ直ぐで創造的な眼を通した記載である。先入観でけっこうなもの≠ニ決め付け気分にひたる≠フではなく、現場に行って、その空間性を問い、創造性を問う。こうした出会いの中で次々と発見される芸術性は、岡本氏の誠実なる生き方も垣間見えて興味深い。
さて、こうして読み込んでみると、岡本太郎の指摘、もしくは叫びは、単に芸術論に留まらないことが解る。常に大真面目で、全身全霊で物事に取り組む姿勢はまさに求道者。「芸術」を「人生」と読みかえてみれば、これはそのまま立派な宗教書として尊ぶことさえできる。
そうした視点で振り返ってみれば、「伝統主義」の頑迷性は芸術以上に宗教においてこそ絶望的だ。現代日本のみならず、世界全体が宗教の頑迷性に押し付けられ、突破口が見つからず、暴力をそのはけ口とする有様。
こんな時代だからこそ、岡本太郎の真剣な指摘がいよいよ頼もしく響き、同時に、現在の私たちの体たらくには懺悔を禁じえないのだ。
この本は昭和31年に光文社より初刊行されているが、『今日の芸術』(昭和29年刊行)に続き今なお光を放ち続ける書となっている。こんな人間が過去にはいたんだ≠ニ驚けば、これから新たな一歩を踏み出そうとする者の力になってくれるだろう。そんな貴重な一冊である。