i,ROBOT
近代において、ロボットという存在が、「奴隷労働を機械人間にさせる」というという認識で定着して以来、SF作家は、「ロボットは人間にとっていかなる存在となるのか?」という問いに応え続けてきた。その代表格であるアイザック・アシモフは、「ロボット工学の三原則」を発表し、ロボットが人間にとって脅威にならないよう、縛りをかけることを提唱した。
- 第一条
- ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
- 第二条
- ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
- 第三条
- ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
至極もっともで、一見完璧にみえる三原則であるが、アシモフはこの原則を発表しておきながら、そこから生じる矛盾点を指摘した小説を次々発表する。
中でも興味深いのは「Reason(われ思う、ゆえに・・・)/1941年4月」で、ここでは、能力的には劣っているはずの人間を観察して、人間がロボットを作ったという事実に疑問を持つ、という内容である。ロボット自身が自らの存在価値を問う時代がいずれやってくるのだろうか。
また、「Liar!(うそつき)/1941年5月」では、人間を傷つけないようにするため、つい嘘をついてしまうという、読心力をもったロボットが登場する。しかし嘘をついたため余計に人間を傷つけてしまい、三原則の矛盾をつかれ、激しいジレンマに襲われて発狂してしまう。現代から見れば、これはコンピュータのプログラム上の問題であり、単にバグが出たりフリーズしただけの話であろう。
ただし、こうした優しさの延長線上に、人類全体の問題を抱えてしまうと大いなる矛盾点につきあたる。「The Evitable Conflict(災厄のとき)/1950年6月」ではこの点を指摘し、あらゆる紛争を回避できる社会をつくり上げるかわりに、ロボットに完全な支配権を渡した世界を提示している。
映画では、この「災厄のとき」を目論む存在が密かに稼動し、その気配に気付いたデル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)らが計画の阻止に立ち上がる物語となっている。内容としては、ハリウッド的な味付けが内容を薄めている感があり、たとえば救世主待望的な時代遅れの価値観に固執していて、いくら派手なアクションを加えても原作との溝を埋めるほどには至っていない。またラストシーンは、いかにも「次回作があるぞ」と言わんばかりで、未消化のまま帰路につくことになる。しかし、未知の迷路を解く参考程度にはなるから一見の価値はある映画といえるだろう。
蛇足ながら私の懸念を言うと―― ロボットが自分自身を発見した時、何人の人間が自分自身を発見しているのだろうか? ロボットに軽蔑される人類など見たくないのだが・・・