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【本・映画等の紹介、評論】

ふたたびの恋

野沢尚 著/文藝春秋

恋の物語三部作

 脚本家の野沢尚氏が放つ恋の物語三部作。恋真っ最中の人も、恋に破れた人も、まだ恋が始まっていない人も、そして「もう年なんだから恋なんて青臭いことはしない」という人も、たまには虚構の恋に心をゆだねてみよう。もしかしたら、身をゆだねる本当の恋に向かって歩み出せるかも知れない。

 脚本家の頭の中がちょっぴり垣間見られる本

 舞台化もされた『ふたたびの恋』は、お洒落でありながら重厚なラブストーリー。思い出の旅先で再会した男女二人の脚本家が互いに協力しながら純粋なラブストーリーを作りあげていく、という物語である。途中、脚本製作の経緯を巡って思いがけない展開となっていく。

「こういうドラマを待っていたんだ」と共感した人も多いだろう。原作も素晴らしいが、舞台にかけるとなお輝きを増す。役所広司・永作博美・國村隼の3人(原作では2人)は緊張感を保ちつつ、互いの個性を引き出す役割を果たしていた。劇中で紹介されるカクテルも、ストーリー展開や二人の個性を反映したレシピになっていて興味深い。

 しかし野沢氏は、なぜこのような、ある意味自分の存在を危険にさらすような本を書いたのだろう。虚構であることが前面に出された虚構など、一般的には感動を呼ぶことはない。虚々実々であってこそ虚構が人々の胸を打つのだ。虚構を紡ぎ出していく虚構の物語、という二重の虚構に取り囲まれて、読者や観客は、どの場に立って物語を自らの人生に重ねていけばよいのだろうか。

 では虚構とは何か。私が一生苦しめられる、ありもしない世界や、居もしない人間たちのことだ。

[二日目]

 脚本を書き進むうちに、これは新子へのラブ・レターであることに気づいた。現実では紡ぐことのできない新子との恋を、私は虚構の男女に託そうとしていた。もうお前のことは愛せない。でも、この男はこの女を愛し続ける。それで勘弁してくれ。私はそう言いたかったのだろうか。

[一週間後]

 脚本家が脚本家を主人公にして脚本を書く、というと、これはいわば自画像のようなものであろうか。しかし、画家が描く自画像もそうだが、脚本家の自画像などさらに誰の興味もひかない。絵に比べると言葉はあまりにも直接的に意味を伝えるからだ。このことを野沢氏に聞いてみると、「自分自身は3分の1くらい」と答えてくれた。そうなのだ。このくらいの割合で自分というスピリッツを入れると、程よい味わいのカクテルになる。

 しかしベース・スピリッツだけではラブ・ストーリーのレシピは完成しない。柑橘系のジュースに、リキュールも加わっているはずだ。柑橘系のジュースとは、描かれた女性の魅力であり、リキュールとは他の作品群であり取材等で得た他人の人生を意味する。

 女性の魅力ということで言えば、登場人物の「大木新子」は本名を一字変えて「逢木新子」というペンネームを使っている。昔の野沢氏を知る者にとっては少しこそばゆい名であるが、それだけ思い入れの深いキャラクターなのだろう。新子は売れっ子作家であるが、彼女の書く脚本は伏線が弱く、先生(室生晃一)の嫌う「ご都合主義的偶然性」を堂々と使用してみせる。おそらくこれは野沢氏も嫌う展開なのであろう。しかしそれを持していても、さらに惹きつける魅力を感じさせるのが新子という存在である。
 先生の書くシナリオに「人間観察が甘い」と生意気に批判し、時々中学生のように笑い、最悪の駄作を必死に誉める新子。しかも、現実においては見事な伏線を用意する新子。彼女のような後輩を心のどこかで求めている人や、過去に惹かれていた人も多いのではないだろうか。柑橘系のジュースは見事な香りと酸味を放っている。

 次に、リキュールに相当する部分についても語りたい思いはあるが、複雑になり過ぎるので止めておく。例えば、「20年後にまた逢いましょう」という台詞は、個人的にはある小説が思い浮かんだが、確認を取るような無粋なまねはすべきではなかろう。

 このように『ふたたびの恋』は、脚本家の頭の中がほんのちょっとだけ垣間見られる本である。しかし涙が溢れて止まらなくなるような物語ではない。純粋に感動する物語でもない。ただただ、心地よい虚構のカクテルで酔わせてくれる物語である。そして、物語がずっと続いていて欲しいと望ませてくれる上質の虚構である。
 虚構は、いつまでも私たちを魅了し、いつまでも脚本家を苦しめる。私たちは脚本家でなくて本当に良かったのだ。


 本書にはこの他、『恋のきずな』と『さようならを言う恋』がおさめられている。

 『恋のきずな』は、息子の友だちに次第に惹かれていく母親の物語である。出産間近の「今」を知る読者にとっては、次第に緊張感が高ぶってきて、途中で読むことを止めさせない展開となる。「おい、おいー」と言いながら読むこと数十分。結末は言わない方がいいだろう。「キラーパス」と「エンジェルパス」の違いが一つのキーワードになっているが、本格的サッカー小説を読みたいのなら、『龍時 01−02』(野沢尚 著/文藝春秋)をどうぞ。

 別れた妻から突然の呼び出しを受けた男の一日を描いた『さようならを言う恋』は、ひたすら泣ける物語。分かれた理由を胸にしまいつつ、それを乗り越えて生きていこうとする二人の健気な姿が印象的である。これはどちらかというと映像に向いた小説だろう。

[Shinsui]


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