中央公論新社刊行の寺内大吉氏著作になる題記の「法然讃歌」を読んだ。率直に言って宗教者〈元浄土宗宗務総長〉としての著作というより、作家としての氏の著作であると前提を置いて読むべきであったというのがわたしの感想である。
というのは、法然聖人の念仏の教えをどのように讃嘆され、今の不条理の満ちている現代に伝えようとしているのか、そういう期待をもって読み始めたものにとってやや期待はずれであった。もっとも私は、親鸞聖人とのかかわりで最初、この本を拾い読みしたという点で、その印象が読後感をゆがめたところがあるかもしれない、そう思って何度か読みなおして見たがやはり第一印象は変らなかった。
やや不純さがあるかもしれないが、親鸞聖人とのかかわりの部分について寺内氏の表現を追ってみたい。
◆ 自然法爾について
@法然の名の由来(同書4頁〜)
法然は房号である。天台沙味としての僧名は法然房源空である。A(同書7頁〜)
<中略>
法然は自分の房名について、比叡をはなれて傘下へ帰入してきた弁長に以下のように語っている。
――世人ミナ因縁アリテ道心ヲ発スナリ。イワユル父母兄弟ニ別レ、妻子朋友ニハナレルナドナリ。シカルニ源空ハサセル因縁モ無クシテ法爾法然ト道心ヲ発ス故ニ師匠、名ヲサズケテ法然トスナリ
法然の弟子親鸞は「法爾自然」の解釈を師の言葉として次のように伝える。
――法爾というは、この如来の御誓いなるがゆえに、然らしむるを法爾という。法爾は、この御誓いなりけるゆえに、すべて行者のはからいの無きを以て、この法の徳のゆえに然らしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに他力には義なきを義とす、と知るべしとなり。自然というは、もとより然らしむという言葉なり。弥陀の御誓いの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませ給いて、迎えんとはからわせ給いたるによりて、行者の良からんとも、悪しからんとも思わぬを、自然とは申すぞと聞きて候西方浄土に在ます阿弥陀仏はすべての人間を平等に救い上げて、一人の漏れる者もなく浄土へ往生させるという誓願をたてた。その慈悲をうける僧俗(行者)は、もとよりおのおのの努力や精進の結果ではないから、善業を積もうと悪事を働いた身であろうとも、おのずから救われてゆく。弥陀の誓願が法爾であり、救われてゆく人間の法悦が自然だという。
だから他力信心の念仏は、義無きを以て義とする。つまり阿弥陀仏の誓願を信じてひたすら念仏する絶対他力なので、教理のないことを教えとすると、師の法然から「聞きて候」と親鸞は証言しているのである。
「他力には義なきをもって義とす」は法然上人のお言葉であることはその通りである。だから寺内氏が《師の法然から「聞きて候」と親鸞は証言している》と書いているのは間違いは無い。しかしこの自然法爾の章は単なる親鸞聖人の証言ではない。
「笠間の念仏者にあてた御消息」(浄土真宗聖典 註釈版746頁)には「義なきを義とすというのは、法然上人のお言葉です。……」とあり、さらに聖人ご自身の考え方が述べられている。そこには、《他力とは、自分自身の努力を全く放棄してすべてを阿弥陀様に任せきることである》といっておられる。そして
…たとひ法然聖人にすかされまゐらせ て、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、 自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候 はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびが たき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし…という歎異抄第2条のお言葉につらなるものである。
B悪人正機の問いかけ(同書78頁〜90頁)
寺内氏はこう書き出している。
悪人正機と言えば親鸞の独専語であった。関東から逃げ出すようにして京へ戻った師の親鸞を追ってきた河和田の唯円は、聞き書きした「歎異抄」で次のように書いている。として以下縷々説明をされている。
――善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世の人つねにいわく。悪人なお往生す。いかにいわんや善人をやと。<中略>とおおせ候いきこの文章が独り歩きして親鸞独自の思想であるかのように受けとめられてきた。ところが前掲の文章を結んだ「まして悪人は、とおおせせ候いき」の主語は誰であるか。
<中略>
……悪人正機もまた法然の "おおせ" と解するのが当然であろう。
このことについて、梯実円和上は「聖典セミナー歎異抄」(110頁〜156頁)においていろいろな文献を挙げながら考察され、悪人正機の考えは法然聖人に始まることを書かれている。その考証の姿勢は寺内氏の比ではない。
師はこう言われている。
自業自得の因果を、この世における仏教倫理の法則としては認めながらも、浄土教の真実としては、それを超えて善悪平等の救いを説き、さらに悪人正機・善人傍機説というまったく新しい領解の枠組みを定めていかれた最初の人は法然聖人でした。<中略>こうして本願の念仏は、廃悪修善の自力行ではなくて、弘願他力の救いをたのんで称える他力行であることをあらわすことによって、廃悪修善を超えた仏教があるということをはじめて明らかにされたのが法然聖人でした。すなはち善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、わけへだてなく救うという平等の大悲の顕現した法門を浄土門と呼び、浄土宗と名づけられたのでした。
このお二人の文章の違いは、何であろうかと考えるに、寺内氏は《親鸞は法然の弟子に過ぎない》という視点ではなかろうか。そして梯実円和上のお気持ちは、《七祖のお一人であり、わが国における浄土門の開祖として法然聖人を讃仰》されておりこの違いが、表現の行間にありありと感ずるものがある。
先に挙げた寺内氏の文の中で
《関東を逃げるようにして京に戻った親鸞》と書出し盗賊耳四郎の説話を載せている。
《法然と親鸞の念仏は一つであり、だからこそ師の教えを正統に継承したのはこの親鸞以外にあり得ない、とも自負している。その是非はともかく……》
《法然は親鸞のように、文章の才に恵まれなかったようである。「和讃」――和文の詩歌を六百余篇も書残した親鸞である。「善人尚以往生、況悪人乎」。ごつごつした漢文というほかはない。だが法然は現実の行動で悪人たちに接している。》
上記の文章に続いて歎異抄後序にあげられている信心に関する諍論のことにふれている。ここでは親鸞聖人と法然聖人のお弟子、勢観房・念仏房たちとの間で起こった「善信の信心も法然上人の信心も一つである」との親鸞聖人(善信)の主張に、「法然上人と善信(親鸞)の信心がどうして同じなのか、おなじであるはずがないではないか」との他の弟子たちの主張が相対立したが、法然が「如来よりたまわりたる信心であるから同じである」といわれ決着したことについて、寺内氏はいわゆる門前払い的に、《勢観房はまだ若年でありそのような争論に加わることは考えれない》《親鸞の記憶違いであろう》としている。
そして本書82頁
…さらに推測をひろげれば、関東から帰洛した親鸞は何らかの機会に勢観房源智の「法然上人伝記」を披閲し、故法然の悪人正機の句に触れ、念仏信仰への思念をいっそう深く掘り下げていったのではあるまいか。しかし「醍醐本」を編述した勢観房源智やその周辺が「悪人ナオ往生ス、況ヤ善人ヲヤ」の善人正傍に傾いている現状へあきたらないものを感じたのではあるまいか。と表現されている。
「法然上人伝記」は勢観房源智の見聞をもとにして法然聖人滅後、源智上人の門弟たちにより編纂されたと推定されている。<中略>かりにこれからは『三心料簡および御法語』と呼ぶことにします。そのさいごにつぎのような一段があります。寺内氏は勢観房源智上人はまだ若年でこのような宗義上の議論・諍論に加わるとは思えないという立場をとっておられる。
*善人なおもって往生す。いはむや悪人をやのこと。口伝これあり。……
細註に『口伝これあり』といわれているのは、この法語は、上人が本当に信頼のできる弟子にだけ口で言い伝えられた《口伝》のことばであったということをあらわしています。親鸞聖人もそれを法然上人から口伝され、さらに唯円房に法然上人からこのようにお聞かせいただいたと口伝されたものが歎異抄に集録されたわけです。法然聖人から親鸞聖人へ、さらに唯円房、あるいは如信上人・覚如上人へと口伝として伝えられ……
この諍論がいつ頃の出来事であったかは明らかではない。親鸞聖人正明伝には、《これは建永元年丙寅秋の頃にてありけるとぞ》といい聖人三十四歳のできごとであったと伝え、……それを受けたと思われる高田派の学僧、五天良空師の正統伝には三十四歳8月16日と日付まで記しています。もちろんそれを確認する資料はありません。しかし、もし歎異抄に記されているように親鸞聖人が善信房と呼ばれていたとすると、元久2年7月29日33歳以降のこととなります。この日に聖人はそれまで名乗っておられた綽空を改めて、善信と名乗ることを法然上人に認めてもらっているからで、そのことは教行信証の後序と、それを註釈された存覚上人の六要鈔に詳しく述べてあります。勢観房源智上人は1183年に生まれ1238年に亡くなられた方である。建永2年は1206年であり、その年には源智上人は二十三歳であり、同席した念仏房は四十九才であったと思われる。また源智上人は十一才ころから法然聖人に仕えており、親鸞聖人よりも早くに弟子として仕えていたことを考え合わせると、寺内氏のいう説はあたらないと思われ、梯和上の方が説得性が高いと思う。
また三十五歳になられた建永2年2月上旬には、念仏停止の勅命によって両聖人とも検挙されそれぞれ流罪になります。その前1箇月くらいは、吉水の草庵も物情騒然としていて、とても晏然と法義を語り合うような雰囲気ではなかったから、やはりこの諍論は建永元年頃と見て大きな違いはなかろうと思います。
要するに親鸞聖人にとって念仏房は大先輩だし、勢観房は、年齢は若いが法然門下では十年以上も先輩でしかも常随の弟子であったことがわかります。と梯先生は言われている。
この人たちが《師弟一味の信心》であるという親鸞聖人の主張に驚き、はげしく論難されたということは、このようなことは一度も法然聖人から聞いたことが無かったからだといわねばなりません。
唯信鈔とのかかわりについて、寺内氏は次のように書いている。
同書121頁〜
……この「唯信鈔」を金科玉条としたのが親鸞だった。親鸞は関東に二十年近くも滞留して各地に門徒道場をひらき、専修念仏の弘宣に駆けまわっていた。急速に門徒層を拡大したあたりに一念義的な唱導を無しとはしなかったことがうかがえる。後鳥羽院の専修弾圧についても、親鸞自身が流刑に処せられたこともあろうが、「主上、臣下、法に背き、義に違し、忿を成し、怨みを結ぶ」と激越な文章で批判した。この教行信証後序の文について寺内氏はさらにこう記している。
その親鸞が「唯信鈔」を熟読するに及び、突如として帰洛してしまうのである。追ってきた関東の門弟たちにも居所を転々として会おうとはしなかった。そして「唯信鈔」を書写しては、消息とともに門弟へ送って、念仏への取り組み方の変更を求めている。
だが法蓮房信空の進言を、法然はきっぱりと退けている。「流刑さらに怨みとすべからず。そのゆえは……」<中略>「辺鄙へ赴きて田夫野人をすすめん事(念仏を勧めること)季來の本意なり」<中略>「いま事の縁によりて、季來の本意を遂げん事、すこぶる朝恩とも言うべし」。<中略>とさえ言う法然であった。続く文章では《「朝恩」を有難いことだと言って、法然は皮肉っている》と書いてはいるが、なんとも著者の人柄を露呈する一文と思える。
ここらあたりの表現に法然と親鸞との "違い" がある。人柄の差であろうか。
親鸞は「主上、臣下、法に背き、義に違し、忿を成し、怨みを結ぶ。茲に因りて、真宗興隆の太祖源空祖師、並に門徒数輩、罪科を考えず、みだりがわしく死罪に坐す」(教行信証)と激越な口調で暴政を批判している。くり返すが法然は、こんどの流罪も天子をふくめた人間たちの思惑がからみ合って生じた因縁の結果であって、このために未知な土地へ伝道にゆけることは有難い「朝恩」だと語るのである。
同様な論法は185頁にみうけられる。
しかし、比叡山常行三昧堂の堂僧だった親鸞が法然門へ帰入したのは建仁元年三月のころである。それから四年余りで、三百八十余人の有力門弟の代表として重要な "宗論" をやったとは、考えにくい。
公式の宗論はともかくとして、年が明けた建永二年の正月から二月へかけて、つまり「専修念仏停止」の宣旨から逮捕へかけて、院の御所周辺で小集団による抗議行動が繰り返しあったことは藤原定家の「名月記」がほのめかしている。
おそらくは抗議行動のリーダーが西意善綽房であり、親鸞だったであろう。抗議行動と言っても、内容は宗教上の問題である。当然、 "宗論" めいたやり取りだったにちがいない。その激越な言辞が親鸞逮捕に及んだのであろうか。……
寺内氏は、何だか未熟者の親鸞、若造の親鸞とばかりであり、また革マルの暴力抗議行動であるかの表現ではないか。法然の温和な姿を非暴力のガンジーに置いてているとさえ思われる。
唯心鈔は安居院聖覚法印が法然聖人の念仏往生の要義をのべられたもので、信心を専修念仏の肝要とする事を明らかにされている。親鸞聖人は関東在住の頃から本書を尊重され門弟にもしばしば勧められ、そのことはご消息にも残っている。聖人は帰洛後に法印の唯信鈔を註釈されて「唯信鈔文意」として著わされた。その意味で聖人が大切に去れたことは間違いではないが《金科玉条とした》という表現は適切ではあるまい。
寺内氏は、「念仏者の往生に奇瑞は不用」との見出しをつけた一文(188頁〜)において、
ここでも死に至る瞬間の "奇瑞" を書き立てて念仏唱導の一助としている。人間の死に、そして念仏往生に、そんな "奇瑞" が必要なのだろうか。
親鸞は弘長二年の十一月、九十歳で死んだ。「さるたしかなる事」も無かったどころか、娘の覚信尼は見送る者数人というあまりにもみじめな野辺送りにその往生さえ疑ぐっている。本人の言葉こそないが、当時越後に在住していた母恵信尼の娘の疑心をうち消す書状がある。
それにつづけて安楽房たちの処刑の様子を「皇帝紀抄」を引いて書いているが、この一文の前に、(186頁)
親鸞は「愚禿鸞」などと、この "禿" を自称する。僧名も俗称も捨てた "禿" だと言う。禿とは一般には「ハゲ」であって髪が抜け落ちた頭形であろう。と記している。
あるいは拷問の苦しみで髪がすべて脱け落ちてしまったのであろうか。そんな症状ばかりでなく、 "禿" には罪人、前科者という意味もこめられていたのであろうか。
どのように表現しようと自由であるが、一宗の責任ある立場の人の表現としては如何なものかと思うことである。
親鸞聖人教行信証後序には法然上人の入滅について
「同じき二年壬申寅月の下旬第五日午のときに入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり」と記されている。
梯実円和上の「愚禿」についての考察。(聖典セミナー歎異抄)
末法に生きる凡愚といえども、守らねばならぬ心の誓があります。それは世俗の権力に追随して、道理を見失うことのないよう生きようとすることでした。また吉凶を占ったり、招福の祈祷を行わないということであり、仏教者でありながら天地の鬼神につかえ、神々に現当二世の利益を祈るということをすまいと誓うことでした。そこにはある意味での宗教的禁欲があったといえましょう。とあります。
聖人は、そうした非僧非俗のおもいを自らの名乗りの上にあらわして、「愚禿釈親鸞」といわれたのでした。愚禿とは、愚かな禿比丘(破戒僧)ということで、非僧の悲しみをあらわし、釈とは釈迦の一族ということで、真の仏弟子としての喜びをあらわされました。おそらく愚禿という名乗りは、伝教大師最澄が若くして比叡に山にこもられたときの「願文」から取られたのでしょう。そこには
「愚が中の極愚
狂が中の極狂
塵禿の有情
底下の最澄」 といわれていました。
真理をみきわめることのできないこの上ない愚か者、煩悩にまどわされて、心がねじけてしまっている狂惑の者、愛憎の塵にまみれ、心では常に戒律を破っている悲しい生きもの、それがこの最低の人間最澄ですと、三世の諸仏の前に懺悔してゆかれた言葉でした。
こうしてみずからの愚悪をしっかりとみつめるがゆえに、つねに如来の教導をあおぎつついきるという、厳しい人生を送られた伝教大師をしのびつつ、聖人は、みづからを愚禿釈親鸞と名のりつづけられたのでした。