この映画を観る前にぜひ知っておいて欲しい事がある。それは、特攻隊というのは全て志願兵であったということ、そして同時に彼らは決して自殺希望者などではなく目的のためにやむなく死に赴いた、という事実である。
腎臓を患い透析を続けている妻を、寡黙に、しかし大きな愛で包み込んでいる夫。彼らはともに、心に重い荷を背負いながら必至に生きてきたのだった。――こういうしぶい役をやらせたら、高倉健の右に出る者はいないだろう。彼の役による山岡秀治と、井川比佐志演ずる藤枝洋二は、かつて特攻隊員として死を覚悟した仲間だったが、ともに飛行中のトラブルのため生き残り、それぞれの人生を歩んでいた。
昭和が終った年、その藤枝が青森の冬山で遭難死する。ついで特攻隊員を見送りつづけた“知覧の母”山本富子が民宿を引退することになったが、その山本から「自分に代わって韓国へ行ってほしい」と、かつての戦友であった金山少尉(本名キム・ソンジェ)の遺品を渡される。金山は妻知子の元許婚で、山岡と藤枝に「決して伝わるはずのない伝言」を託して特攻に散っていった朝鮮出身の兵士だった。
余りにも辛い頼みを背負わされ、迷っていた山岡だったが、容態が悪化していた妻の知子が書きつけていた遺書を見つけ、「俺たちが何も言わなかったら、金山少尉はどこにも居らんかったことになる」と韓国行きを決意、河回に赴いた。
しかし「ソンジェが日本のために特攻で死ぬなんてありえない」と、遺品の受け取りを拒否する一族。今の韓国では、戦前の日本との密な関わりは不名誉とされてしまい、まして「特攻に志願して死んだ」という事実は遺族にとっても二重の悲劇をもたらすことになるのだ。おそらくこれを認めたら、一族は韓国では罵倒の対象とされてしまうだろう。
山岡夫妻と一族の間には、決して癒せぬ深い溝が横たわっているようにみえる。それでも山岡は金山少尉が託した最期の言葉を伝えるのだった。
生きていることの素晴らしさというのは、身近な者の死に出会わなければ中々分からないものである。同様に、「平和」の本当の意味は、戦争を語り継ぐことなくして理解することはできないのだろう。
しかしその傷ついた体験を語る者は少なくなり、悲痛な声に耳を傾ける人も次第に減ってきた。この『ホタル』は、特攻基地の置かれた知覧の地を舞台に、決して生きて帰ることの許されない特攻隊員たちの「もの言えぬ笑顔」の重みを、万分の一でも伝えるために製作された映画といえよう。
その最も重い言葉を朝鮮出身の兵士に語らせているのは象徴的ではあるが、大多数の日本の特攻隊兵士は一体どんな思いで死に赴いたのか、という部分にももっと切り込んでいくべきだったのではないだろうか。
もちろんそれを語らせたら、一言ごとに異論が出ると予想されるし、監督が語るように「日本人のインテリはこう言い、インテリじゃない人はこう言ったと、どうしても日本人のある立場から、当時の日本を見てしまう。それよりも日本人の兵士達が感じていたことをストレートに言えるのは、朝鮮出身の兵隊さんなんじゃないかと」――という状況なのだろう。しかし、考えてみればここにも二重の悲劇があるといえよう。
つまり、日本の特攻隊員の口は今も封じられている、ということなのだ。
この閉ざされている口から現場で起った本当の物語を心で聞きとめ、彼らの悲劇の上に今私たちが生かされていることを思う時、戦争を戦略や善悪対比として捉えるのではなく、共に敬い合わねばならぬ真実への教訓として、いま一度詳しく検証していく必要があるのではないか。そして、彼らの発する「心の叫び」を、各人の政治的な都合等に利用するのではなく、むしろ自我が崩壊する程の覚悟をもって自分の人生観の奥底に響かせ続けてゆくべきであろう。それが戦争で生き残った者、戦争を体験せずに育った者、そして戦争の実態を想像することさえ難しい者の、せめてもの勤めなのではないだろうか。
そして特攻隊の映画はこれを最後とするのではなく、むしろこれをきっかけとして、もっと情報と資金を集め、血肉を通したリアルな戦争体験をスクリーンで再現し、全世界にこの叫びを届けるべきだと思う。イデオロギー論争や正義云々の前に、戦争の痛みを少しでも追体験しておきたい。