平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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「世の中には二種類の人間がいる。納豆が好きな人と嫌いな人である」(J・ジャック・ウソー)
納豆が健康上すぐれていることは医学的に認められ、盛んに喧伝されてもきたが、それでも「どうしても食えん」という人は多い。何を隠そう私もかつてはそういう種に属していて、「1m以内に入るな」という程嫌いだったのだが、奮闘努力の末、これを克服。今では毎日食べるし、仲間と行きつけの飲み屋に行って真っ先に注文するのは「納豆餃子」という役満に裏どらがのったような無闇な臭いを放つ料理で、皆のひんしゅくを買う。
◆ 異常な世界を可愛く表現
上記の序文で、私の意を既に汲んでくれた方もあろうが、男にとって、1970年代の本格的少女漫画――目に星印のヒロインがフリル付の衣装で花の後光を背負って登場し、お城の王子様に見初められながら自分を一途に想う身近な少年と結ばれる・・・などという少女の夢に、納豆と同じ拒絶感を抱くのも無理からぬ事と言えよう。
しかし「現実の全てを味わい尽くす」という雑食を旨とする私としては、セロリや干し椎茸と同じく、どうしても克服しなくてはならない分野なのである。
ということで、またまた前置きが長くなったが、この少女漫画アレルギー克服のため選んだ素材は『花の美女姫』という題名からしてジンマシンの出そうなシリーズである。
この漫画の異常な設定を語るのには、こうした論調では表現できない。そこで以下、ヒロインの一人『群竹鹿の子』さんにこの世界を紹介してもらおう。――
私は『鹿の子』です。よろしくね。私の両親は私が9つの時、死んじゃったの、くっすんん。でもいいの、鹿の子にはお父さん代わりの『氏家美女丸ソンモール』と、お母さん代わりの『氏家姫丸カーモール』がついてるもん。
二人は日仏混血のクオーターで、いとこにあたるんだけど、双子の美少年なの。力も強いし番長なんだけど、ソンンモールは高校の生徒会長でカーモールは副会長なの。高校中の女生徒は二人の魅力のとりこになっているんだけど、二人が取り巻きに選んだのは『しし丸』『ふじ丸』『三角丸』『冬彦』という美少年でね、そこに『加賀小太郎』君っていう鹿の子の同級生まで加えられそうなの。でも小太郎君ったら、私のことが好きだなんて・・・そんなこと言ったら、ソンモールとカーモールにいじめめられるわ。私、どうしたらいいの? おろおろ・・・
でもいいの。私小太郎君の愛を受け入れるわ。だから勇気を出して二人にいったの。
「私も小太郎君が好き」って。「もう子供じゃないわ」って。鹿の子強くなったでしょ。二人もびっくりしていたわ。でも、でも、鹿の子は夜一人でおトイレ行くのは怖いわ。だからソンモール、カーモール、いっしょについて来てね。扉も閉めちゃいやよ。鹿の子泣いちゃうわ。
でも、こんなことじゃいけないわね。二人はもうすぐフランスに帰っちゃうの。小太郎君、どうしたらいい?
えっ! 「それならフランスに行ったら。何年かしたら僕迎えに行くよ」ですって? 本気で言ってるの? 小太郎くん、鹿の子と離れちゃってもいいの!? いや、小太郎くんきらい!! (泣きながら走り去る)
外見上、キャラクターの個性のなさは、少年漫画に慣れた目には判別は絶望的に写る。皆整った顔かたちで、衣装もとっかえひっかえページ毎に入れ替わる。
この豪華さは紅白歌合戦なみの趣味の悪さであるが、加えて登場人物中、顔で男女の見分けがつくのはごく一部である。その上、男も女装趣味ときたもんだ。
とにかく、イメージで個人を特定することは不可能。そこでまず、顔を記号化して判別することをお勧めしたい。例えばこの『花の美女姫』では――
スポーツ根性ものならその競技の経験値が軸であり、ギャグ漫画はギャグを味わうことに集中すればよい。少女漫画は恋愛が話の軸であるのは明白なのだが、人間関係が入り乱れているため、どの関係が中心にくるのか解り辛い。
でも大丈夫。これは推理小説でも言えることだが、犯人は小説のごく最初に登場するように、恋愛の中心軸は必ず第一話に提示されている。『花の美女姫』でいえば、ソンモールと鹿の子で、鹿の子は結局小太郎と結ばれるが、ソンモールの鹿の子に対する想いは後々まで尾を引く。
まあ、「読書百遍、意自ずから通ず」の精神でストーリーの軸を探すことである。
◆作者の意図がわからない
恋愛を中心にしているが、その奥に何か作者の意図が隠されているのではないか、と様々に憶測して読むと必ず混乱する。時代設定や伯爵公爵といった家柄、家風、名門の学校といった舞台は、恋愛を味付けするスパイスとして登場するのだが、それ以上の意味は無い。
大抵の場合、それらは結婚の障害となって二人にのしかかるのだが、これは現実の壁のようにせせこましくない。あくまで夢のような贅沢で絢爛豪華な壁である。このような現実離れした障害に心を痛めることが即ち少女漫画を読むということなのだ。そしてその舞台の登場人物全ての憧れの的である男が、美人でもないヒロイン(つまり自分)に本気で恋をする、という設定以外、少女漫画のパターンはあり得ないのである。
◆ 束縛が生んだ蜃気楼
さて、このような「豪華絢爛な設定の上に寒い(可愛い?)ギャグがちりばめられている」というステレオタイプの少女漫画は1980年代に入ると徐々に変化を見せる。
つまり、「男の子の文化」と「女の子の文化」が厳然と分けられていた時代は終焉をつげ、それとともに各ジャンルのパターンが見透かされ、確固たるジャンル分けを作者も読者も嫌うようになったのだろう。これは1990年代にも受け継がれ、今では男が堂々と少女漫画雑誌を人前で読める時代になった。
そんな現代ではもう『鹿の子』も『美女姫』も、少女の夢の中では生きられない。シリーズが進むにつれ、彼らの舞台がアステカ神話に移っていってしまう。
そう、彼らは現実の強烈な束縛が生み出した蜃気楼のような存在だったのである。
[M.Ogasawara]
さて、以上の偏見に満ちた評論に対し、この漫画を紹介した張本人から批判が入った。
つまり「この作品は少女漫画の中でもちょと異常な部類に入るから、ジャンルを代表した作品ではない」という理屈である。
ならば、もっと沢山少女漫画を読んでから総合的に書くべきなのだろうが、とてもそれだけの気力は残っていない。何しろこの『花の美女姫』等を読むことで、頭は混乱し、相当の体力の消耗をみたのである。
納豆を克服した私も、このジャンルはこれを最後にしたい。「結局この壁は破れなかったな」と揶揄されてもかまわない。潔く負けを認めよう。これでようやく私も現実生活に復帰できるのだ。