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【映画・書籍等の紹介、評論】

フリーダ

芸術も革命も痛みと生命讃歌の中で


 メキシコの伝説的画家フリーダ・カーロ ・・・常に肉体と精神の痛みに苛まれながら、フリーダの一生は極上の色彩と情熱に彩られている。この情熱は芸術と革命に捧げられたが、革命といえども、彼女にとっては理論ではなく、人と人との深い交わりであり、肉体の痛みを通した生命讃歌そのものだったのだろう。

◆ 「ちょっとした刺し傷」の痛み

「心象風景を描く」といえば、現在では当たり前のことで、むしろ心象を反映しない絵の方が何らかの理由づけを求められるほどである。ただし、心象を描くといっても、そこに何らかの痛みや渇望がなければ単なるお遊びに過ぎない。ある意味、シュールリアリズムの末路がこうした袋小路だったのではないだろうか。しかし、先駆となる者には決して中途半端な人生は用意されていない。

「脊椎が折れている。鎖骨と肋骨もだ。骨盤も3つに割れている。鉄棒は右半身から入り、膣へと貫通。右足は11箇所、骨折。かかとも粉々だ」――18歳の少女がバス事故で背負った傷は、生涯に32回の手術を施さねばならないほどの重症だった。

「鉄棒が私の処女を奪った」と気丈に語るフリーダも恋人と別れ失意のどん底にあった。そんな彼女に両親は絵を描くことを勧める。 そして21歳、フリーダは、壁画運動で活躍中の画家ディエゴ・リベーラと出遭いたちまち恋に陥る。リベーラは、やがて美術史に名を轟かす巨匠の一人となるのだが、持参したフリーダの絵を見て一目で才能を見抜いたのだった。この出遭いが彼女の才能を開花させるとともに、さらなる試練と苦痛を彼女に与えることになる。

 ディエゴはとにかく浮気性。モデルの女性と寝ることに関しては「セックスは小便だ」と言ってのける。当然、結婚後も浮気はやまない。その上、元の妻が2階に居坐るという変則的な生活である。ニューヨークに行った後も次々女性を変えて寝るが、フリーダも夫の浮気相手とベットを共にする。彼女は両性愛者なのだ。

 ディエゴがロックフェラー・センターの壁画にレーニンの像を描こうとした有名な事件の後、メキシコに帰ったフリーダに更なる事件が襲う。妹のクリスティナにまでディエゴは手を出したのだ。フリーダはこの後、新聞記事にあった<妻を22回も刺した男>の言葉を引用して画題とする――「ちょっとした刺し傷さ」。

 1938年、ロシアからトロツキー夫妻が亡命してくる。この夫妻をかくまったのがディエゴとフリーダだが、トロツキーの弁舌に惚れたフリーダは彼と情事に走ってしまう。怒るディエゴにフリーダは「ただのセックスよ」と言ってのける。

 やがてパリで“ヴォーグ”の表紙を飾ったフリーダ。映画では軽く触れられただけだが、この時の活躍がヨーロッパ絵画に多大な影響を与えていくことになる。

 メキシコに帰ったフリーダを待ち受けていたのは、トロツキー暗殺に関する警察の取り調べだった。この疑いは晴れるが、次第に彼女の肉体は軋みはじめる。念願だった国内での個展には、ベッドで横たわったまま会場に入る、というありさまだった。

「死んだら焼いて。埋めないで。寝るのは、たくさん」と訴えるフリーダ。燃え上がる自分の姿を描き、そして最後に『生命万歳』という作品を残して、彼女の一生は幕を閉じる。

◆ 革命はテキーラとともに

 今でこそ色あせてしまった共産主義革命だが、当時のメキシコにあっては、革命は自らの文化文明の再発見であり、民衆の新たな希望となって展開していた。 ディエゴ・リベーラや、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビド・アルファロ・シケイロスらに代表される当時の壁画運動は、欧米優位の価値観を覆し、メキシコ的価値を公共の場で表現する運動だった。しかも、高度な美的手法にも裏打ちされている。

 蔑まれていたメキシコ文化はここで一気に世界の桧舞台に立つことができたのだ。今では、メキシコの壁画運動を語らずして現代芸術を語ることはできないほどである。

 映画の前半、リベーラとシケイロスが酒場で口論する場面がある。

 彼らの見つめる先には抑圧された民衆がいた。蔑まれ足蹴りにされたメキシコの伝統文化があった。二人はこの現状を変革しようと起ち上がった同士である。しかし、だからこそ、彼らの間に横たわる微妙な姿勢の差が互いに我慢できないのだろう。

 リベーラはその女癖にもあるように、自身に矛盾をかかえたまま、また多少の妥協は許しながら進む個人主義者である。しかしシケイロスは、作品同様どこまでも戦闘的であり前衛的である。リベーラはシケイロスを「視野が狭い」と批判し、シケイロスはリベーラを「金持ちの共産主義者」と罵る。

 微妙な姿勢の違いをめぐって口論となり、ピストルを撃つまでの喧嘩となるが、そこに写真家のティナが「一番多く飲んだ者と踊るわ」と割って入る。しかしここで勝ったのは、この2人ではなくフリーダだった。皆があっけにとられる中、ティナとフリーダが女同士の官能的な踊りを見せる。

 私が一番印象に残った場面はここである。メキシコで起こった革命は、政治・経済理論のみで導かれた運動ではない。スペイン人による征服から始まり、独立後の白人支配を経て、西洋文明至上主義と封建制度の矛盾、ここから民衆を解放する事がメキシコ革命の目的であった。スペイン人支配から始まった数々の苦難は特に女性に及んでいた。男は歴史的犠牲者である母に真摯に救いの手を差し延べてきたのだろうか。

 革命に参加した者たちは、男も女も必死だったに違いない。だが、男はどこまでも体裁にこだわりマッチョな男にあこがれ、内部抗争を繰り返し、時として暴力を賛美する。女は肉体に傷を負うがゆえに、より痛切に解放を願う。

「素裸の革命」ともいうべきメキシコの革命だが、最も土着的な試練を負ったのはフリーダ・カーロのような立場の女性だろう。彼女の痛みは、社会体制的な革命だけでは癒されないものを抱える。そしてさらなる傷を身内から受け、常なる痛みを背負う。

 傷の半分以上は夫であるディエゴ・リベーラの付けたものだ。しかし彼女の作品を最も理解したのもリベーラだった。見出され、傷つき、そして癒されもする関係は、どのような結末も決して光輝くものとはならない。しかし、闇に閉ざされたまま朽ち果てることもない。

 フリーダの痛みは、今ようやく世界中の人々の胸に届く。あなたは彼女の姿を真正面から見つめられるだろうか。

公開:
2002年(日本では2003年)
監督:
ジュリー・テイモア
製作:
サラ・グリーン、サルマ・ハエック 等
原作:
ヘイデン・エレーラ
音楽:
エリオット・ゴールデンサル
出演:
サルマ・ハエック、アルフレッド・モリーナ、ジェフリー・ラッシュ、ミア・マエストロ 他
[Shinsui]


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