この映画の魅力は何といっても映像だけで時間の深みを語る%_にある。饒舌に過ぎる傾向がある近年のアメリカ映画の中にあって、沈黙こそ雄弁≠復活させた功績は大きいだろう。特にカールとエディの結婚生活を描いた一幕は必見。私たちは、このこみ上げた感情のまま「今」の環境に突入することで、家の売却を拒否し続けるエディの気持ちが理解でき、交渉人とのトラブルにも同情することになる。他にも一つ一つのしぐさの中に深い意味を宿す場面が多く、凝ってるなあ≠ニ感嘆することも多い。
ストーリーとしては、最初と最後は面白かったが、チャールズ・マンツの扱いが今ひとつ理解できない。カールの人生同様、チャールズの人生も垣間見てみたいのだが、あまりにも冷淡な扱いではなか。悪役は別人に設定しておくべきで、彼はやはり英雄として扱うべきだろう。それに、犬と会話できる装置を発明するくらいだから、彼は冒険家になるより発明家になるべきだった、と思うのは私だけだろうか。
ところで風船で家が空を飛ぶのか?≠ニ真面目に疑問に思う人もいたのだが、荒唐無稽が通るのが映画の面白いところ。そういえば日本でも昔風船に乗ってアメリカまで行く≠ニ豪語し、皆が止めるのも聞かず出発してしまった人がいた。あの風船おじさんはその後どうなったのだろうか。
なお私は3D映像でこれを観たのだが、立体になることで逆に空間を狭く感じてしまうのだ。これは丁度、ルネッサンス以降の近代西洋絵画が3Dパースペクティブを確立することで、かえって空間を狭くしか表現できなくなったジレンマとも合致する(ちなみにこの点では浮世絵の空間表現の方がすぐれている)。それに3D用の眼鏡は鑑賞の邪魔で作品に集中できない。今のままの状況では長編映画においては3D映像の先行きは暗いと思われる。この映画も通常のスクリーンで観ることをお勧めする。
ただ、そんなこんなの難点があっても見ておいて損のない映画だ。同時上映の『晴れ ときどき くもり(PARTLY CLOUDY)』も傑作で、ある意味『カールじいさんの空飛ぶ家』とも少しつながる作品となっている。
- ストーリー (パンフレットより引用)
- カール・フレドリクセンは78歳のおじいさん。子供はおらず、病気で亡くなった妻エリーと過ごした家にいまもひとりで住んでいる。エリーとは1934年に出会った幼なじみ。ふたりは飛行船で世界中を飛び回る冒険家チャールズ・マンツに憧れ、近所の空き家で遊んだものだった。この年、マンツは南米の秘境、前人未到のパラダイスの滝での探検を終え、鳥のような怪物の骨格を持って1年ぶりにアメリカに帰ってきたが、科学者たちはこの骨格を「ねつ造だ」と決めつけ、冒険家協会の会員資格を剥奪されてしまう。これに対しマンツは、「生きた標本を見つけるまでは帰らない」と誓い、パラダイスの滝に戻って行った。
カールとエリーは子供の頃に「いつか南米を冒険しよう」と約束していたが、日々の現実に追われ、先延ばしにしているうちにエリーは病気にかかり、カールをひとり残し帰らぬ人に…。風船売りの仕事を引退して余生を送っているカールは、思い出と共にひっそりと生きるいっぽうで、日々変わってゆく環境を苦々しく思っていた。そんな時、家の売却を拒否したカールは、トラブルを起こし、老人ホームに強制収容されることになる。
その時、カールはエリーとの約束を果たすべく、パラダイスの滝へ旅立つことを決意した。風船に関する知識を駆使し、我が家を空飛ぶマシンに改良。老人ホームから迎えが来ると、「さらばだ諸君。パラダイスの滝から絵ハガキを送ってやる」と言い残し、家ごと旅立った。