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自国を愛することは国家主義的であることと同じではない。『愛国心の欠如』の章
ほとんどの日本人は、この国家的大問題の解決にみずから乗り出していくほど愛国的ではない、と結論せざるをえないのだ。『筋肉だけで頭脳がない国』の章
『愛国心』と言うとすぐ右翼を連想し『戦争責任』と言うとすぐ左翼を連想する日本人。
国際的に見て国家が正常に機能するためには、その国家が事実に基づいた歴史観を持つ事が基本であり、それは国を愛する心から生れる――この言われてみれば当たり前の事が日本では通用しない。
本著では、その原因を深く日本の近代史から探り、「日本文化の特殊論」の危険性と、「アカウンタビリティーの欠如」を指摘する。
私が言いたいのは、ひどい政治状況を前にしてなお拱手[きょうしゅ]傍観している、その言い訳に、文化を使うべきでないということだ。『文化のフィルター』の章
アカウンタビリティーの根本の意味は、大きな権力をもつ人間はみずからの行為や怠慢の結果を眼前に突きつけられるということだ。そして、彼らが生み出した状況に困った点があったら、彼らは「アカウント(説明)する」こと、(中略)その場合は、その説明に説得力があることが必要条件となる。『さまざまなつながり』の章
この論はかつて司馬遼太郎も、「統帥権の乱用が国を破滅に導いた」という意を述べていたことを思い起こさせるが、ウォルフレン氏は
司馬が見落としたのは、その明治の寡頭体制を支えた人々、なかでも山県有明が、最も力のあるものがアカウンタビリティーを負わないですむ、歪んだ政治システムをつくったということだ。『巨大な無責任体制』の章
と手厳しい。ここでは、個人個人の「責任感」の問題ではなく、「巨大な体制」そのものに欠陥があると指摘している。
また、改革の停滞も「しかたがない」とあきらめ、今なお「何とかなるさ」という楽観論が、多くの日本人にある事にも警告を発している。