ブッタとシッタカブッタ・・・タイトルを読んだだけで思わず笑ってしまった。「ブタ」と「ブッタ」、「ブッダ」は確かに語呂はよく似ている。“・・・しかしいくら何でも”と、思いつつ読み進めていくと、この悟ったブタ「ブッタ」の目が、こちらのいい加減な生き様を見透かしているように感じられるのは何故だろう?
著者の小泉氏によると「このシリーズは3部作で完了したい」ということだが、3部とも仏教的なものの見方を踏まえながら、各々微妙に趣きというか悩みに対するアプローチが違う
◆心の運転マニアル本
1巻は、どこにでもいるような(?)恋に悩むブタ「シッタカブッタ君」のつまずきから“本当の自分って何だろう?”という問いかけがなされる。いちおうブタの漫画ではあるし、ブッタやシッタカブッタ君の愛嬌ある体型に微笑みつつも、内容は深い。
シッタカブッタ : 「どーして?」って思う時って、どーして不幸の時だけなんだろう・・・「ボクはどーして幸福なんだ」って、どーして思わないんだろう・・・どうして?
本当のボクは、あんなこと、したくなかったのに。
――じゃ誰がしたの?
等々、日常的にしてしまう言い訳や思い込みの中に、迷いの根を見つける。
それは『唯識論』をふまえた展開であったり、『十猪図(じゅっちょず)』というオリジナルの『十牛図』を超える(断言!)説得力で私に迫る。
しかしこの巻で最も印象に残るのは、何といっても「シンクロナイズドスイミング」であろう。私は未だに笑いがおさまらず困っている。
◆そのまんまでいいよ
2巻と1巻の違いは、シッタカブッタ以外のブタ君たち、例えばカイカブッタ君やイイコブッタちゃんの登場回数が増えたことにより、悩みのネタが社会的になり、会社での悩み、教育の矛盾、正義という名の暴力にも目が向けられたことである。
母ブタ : 勉強しなさい! いっぱい勉強して、いい学校へ入って、いい会社に入るのよ! それからまたがんばって・・・
子ブタ : シアワセって、そんな先にいかなきゃないの?他人を傷つけてでも自分のことを大事にしたがるなんて・・・
そんなにまでして守ろうとしている《自分》が、はたしてホントの《自分》かな・・・「・・・したい」「・・・なりたい」って悩んでいてもしかたないよね。ホントになりたい人は言う前にもうやってるよ
《そのまんまでいい》を言いわけにするなよ
こうしてシッタカブッタ君は、心の旅を終えて、「そのまんまの元のところに戻ってきた」。一見何も変わってない彼も、どこか違っている・・・ほんの少し。
◆なあんでもないよ
第3巻は四苦八苦の説明に始まり、主に「ものの見方」の誤りからくる苦しみをテーマにしている。
比較する見方にとらわれるブタは「もっと」を求めつづけるしがみついてばかりいるのも、しがみつかないことに しがみついているのも、どちらも病
あんたは心が「自分」だと思ってるだろうが、ではその心がどうしてあんたを苦しめるんだ?
おまえさんすぐに言葉で答を出そうとするね。答を言うと、とりあえずほっとするだろう。悪いクセだ
よく本当の自分という言い方をするけど、ある面が本当の自分で、いつもの自分はうその自分なんだろうか
やがてシッタカブッタ君もブッタの語らずして語る声が聞こえ、ついに“あっかんべー”をして答を出す(というか、答を捨てるor「目の下にあり」か?)。最後の方はまるで禅問答だが、いい加減に読み進めていると、笑って見下していたシッタカブッタに、いつのまにか置いてきぼりをくったような衝撃が走る。
「おいおい、俺もすぐ行くからさ」と、重い腰を上げるもよし、「ふん」と読み捨てるもよし。それにしてもつくづく目が離せない素敵なブタ君たちである。
◆ちょっと気になる点
このように3巻とも明らかに仏教を下地にして話が進むのだが、各巻の最初に「これは宗教ではない」と、但し書きが入っている。仏教は宗教ではないのだろうか? 確かに西洋で言う“religion”とは意味が違うが、「宗教」という言葉は仏教語である。
日本では「宗教」という言葉自体が、「危険で頑迷」というイメージを持ってしまっている。しかしである、これも「思い込み」「先入観」ではないだろうか。そうすると、本書の中で言われる「思い込みや先入観を捨てる」という指摘は、”この著者にもしなくてはならない”と思うのだが、いかがだろうか。
それにしても、小泉氏の本は『コブタの気持ちもわかってよ』もそうだが、面白い中にもどこか哀しい調べが聞こえてくるのは何故だろう。