お経をだれかに「あげる」つもりで、ただ棒読みしている。大切なことが書かれているのに、それが自分自身への呼びかけだとは少しも思わない。聞こうともしない。なれっこになってしまっている。馴れほどおそろしいものはない。お経の声だけ、文字だけ素通りする。阿弥陀様の今現在説法も、それを信ぜよとのお釈迦さまのお勧めもひびいてこない。
[馴れっこ ―当信是経―]
おそらく日本で『仏説阿弥陀経』ほど数多く読まれてきた経典は他にないだろう。しかし読まれている実情はこの通りで、漢字であることも手伝って、ただ間違えずに読むだけ、意味も分からず聞いているだけ、という場合が多い。
「意味が分からない方がありがたみがある」と感じる人もいるだろうが、それでは経のいのちが伝わらない。大体何のために読んでいるのか分からず、何が書かれているかも分からず、ただ誰かの命日だからありがたがって聞いている、なんて図はちょっと滑稽に写ってしまうが、いかがだろう。
この本はそうした実情を変えるため、阿弥陀経の内容を三十六篇の一口法話としてまとめられたものである。施本用にも最適だろう。
著者の藤枝宏壽氏は平成十年に発足した「現代に真宗の勤式を考える会」の代表であるが、真宗連合へ友引等習俗問題の検討の提案と調査実施、「葬儀・年回忌用 古今法語集」の編纂・出版と、積極的に活動されてみえる。
◆ 簡潔で具体的な編集方針
この本の特徴としては、見開き2ページを一篇としてまとめられているところで、こうした行数に制限をつける書き方は苦労が多かったと思われる。そのお陰で言葉がリズミカルで、豊富な内容に比して読みやすさは抜群である。
また、なるべく専門用語を用いない編集方針により、一般の門徒さんや、今まで仏教と縁の少なかった人にも分かり易く読め、無理なく腹におさめることができる。
少し内容を紹介してみると――
私たちは幼少のときから、きょうだいや友達と比較し、競争しながら成長してきた。だから「比較病」は持病になっている。他と比べて自分がよい時には優越感にとらわれ、悪い時には劣等感に悩まされる。「はらだち、そねみ、ねたむ心」もそこから出てくる。「台風がそれた。このあたりはいい所だ」などと、他人の不幸を材料にして喜ぶのは比較病の末期症状である。
[比較病 ―青色青光―]
人間とは「人と人の間を生きるもの」、「関係を生きるもの」、「共に生きるもの」だと聞く。しかし、愛するもの、都合のよいものと共に生きるものならたやすいことだ。問題は不都合なもの、嫌いなものと共に生きてゆかねばならぬときにどうするかである。
[ともに生きる ―共命之鳥―]
だれか全く公平な立場で「人類の虐殺史」を書いてくれる」人はいないだろうか。人間がいかに残酷なものであるか見極めるべきである。その直視と懺悔に立たないかぎり、真の平和への道は開かれない。
[時代の濁り ―劫濁―]
これらの説明は、「個性尊重」「共生」「平和」といった、今後の社会のあえるべき姿を『阿弥陀経』が示していることを指摘している。大乗経典の特徴は、こうした個人と社会のありかたに明確な方向性を示していることにあるのだろう。
◆ 足もとからの目覚め
そうした今後の方向性とともに、経典には「足もとから目覚める」ことの重要性が説かれていて、この本には実に興味深いたとえ話が載っている。
砂漠には「骨道」というものがあるそうだ。数知れぬ先人たちが行き倒れ行き倒れして、その骨で道ができているという。その話を聞いて思う。今、何の跡も見えない大地に自分が立っている、我が家が立っている。しかし、その下にはどれだけの先人が生きていったことやら、どれだけの動植物の死骸が土となっていったことやら。我が踏み立つ下はまさに「骨道」ではなかろうか。[踏みつけて ―下方世界―]
「太郎君には分からないでしょう。でもね、そのお魚は一円もお金をもらってないの。ママが払ったお金はみんな人間がとったの。・・・・・」
<中略>
政治だ、経済だ、解散だ、不景気だと、上っ面の話だけが人間の世界だと思ってはいないだろうか。人間の文化を支えている土台はみな「無償」なのである。[いのちの濁り ―命濁―]
経典が単なる社会論・国家論で終わらないのは、こうした個々のいのちを成り立たせている本質まで遡って生き方を示していることで、「理想論の押し付け」に終始した近代思想への批判も、こうした思索から可能になってくるのだろう。
この他、釈尊の弟子の話、「西方」の意味、供養の心、「便利」と「真実の利」の違い、「鬼は外」の鬼は誰のことか、といった経典にある言葉を深く味わった言葉が続く。著者は福井県在住の僧侶として活躍されてみえるが、この法話集は当地で好評を博していて再版を重ねている模様だ。