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【本・映画等の紹介、評論】

車輪の下

ヘルマン・ヘッセ


エリートの挫折を極上の詩に込めて

 日常生活が味気なく思える時、人間関係に疲れてしまった時、だらだらと毎日が過ぎ去ってゆくことに漠然とした不安を抱えてしまった時、学生時代に読んだあの小説をふとまた手にしてみたくなる――そんな気にさせてくれる小説家といえば真っ先にヘルマン・ヘッセの名が浮かぶ。
 そう、これはあくまで個人的感情だが・・・

 現代にも通じるテーマ

 ヘッセの青小年期をモチーフにした自叙伝的小説となっているこの『車輪の下』だが、小説中の作家の姿は、主人公のハンス・ギーベンラートと、神学校の友人ヘルマン・ハイルナーに分裂あるいは分解されて描かれる。これによって1個人の体験が友情と裏切りの要素を加え、また作家がぎりぎりのところで回避し活動の踏み台としていった失望を、悲劇で終わらせる手法を可能にしている。

 余計なお世話かも知れないが、物語を書く場合、登場人物の性格はこうした分裂分解の手法が原則である。間違っても融合は試みない方がいい。余程の文章力があっても読者を戸惑わせることになるからだ。

 さて、この小説のテーマを見つけるのは容易である。また、感情移入もしやすい。なぜなら主人公の置かれた状況が、し烈な受験戦争やエリートのもろさをうかがわせるものであり、また教師に対する非難といった現代の教育問題にも直結しているからだ。我々は“ 100年前のドイツ ”という時間や空間の隔たりを感じることなく物語を読み進められる。

 ただし、人間関係の修羅場を描いても殺伐としたドラマにならず、教師への批判はあってもありがちな教育論に陥ることがないのは、おそらく作家の人間や自然を見る目が限りなく深い愛情に満ちていることからくる恵みだろう。これをもし日本のTVドラマでやったら、と考えると逆にヘッセが詩人であることが再認識される。

 思い上がった幸福感

 主人公のハンス・ギーベンラートは豊かな天分の持ち主で、小さな田舎町シュヴァルツヴァルト始まって以来という自他共に認めるエリートだった。そして当時のエリートの行先は州の神学校と決まっていて、そのためにハンスは猛勉強の日々を送った。

自分はほおのふくれたお人よしの友だちとはまったく別なすぐれた人間で、いつかはきっと人界離れた高いところから得々と彼らを見おろすようになるだろうという、思い上がった幸福感にとらえられた。
 [第1章]

 そうした思い込みも努力の糧とし、州の試験に2番で合格する。その後も神学校で首席を占めるため勉強に励んでゆくハンス。彼の猛烈な頑張りは、他人の追随を許さないという誇り一点で持ちこたえていた。

彼は断然仲間を押さえてやりたいと思った。いったいなぜ? それは彼にもわからなかった。三年来、彼はみんなの注目の的になり、先生たちも牧師さんも父親も、それから特に校長先生が彼を鼓舞激励し、息もつがせず勉強させた。
 [第2章]

 神学校では、癖のある生徒の多い中で驚きの連続だったが、それでもハンスは優等生としての評価を得ていた。しかし札付きの友達との出会いが、ハンスに学校との溝を作り出すきっかけとなってゆく。

 疲れ果てて帰る故郷の苦さ

 ヘルマン・ハイルナーは名前から分かる通り作家の詩人的側面を表しているが、学校との折り合いが悪く最後は脱走してしまう。これによって一人ぼっちになってしまったハンスは、学校でただただ空しく苦しい日々を重ねることになった。

細い少年の顔に浮かぶとほうにくれた微笑の裏に、滅びゆく魂が悩みおぼれようとしておびえながら絶望的に周囲を見まわしているのを見るものはなかった。
<中略>
なぜ彼は最も感じやすい危険な少年時代に毎日夜中まで勉強しなければならなかったのか。なぜ彼から飼いウサギを取り上げてしまったのか。なぜラテン語学校で故意に彼に友だちを遠ざけてしまったのか。<中略>なぜ試験のあとでさえも、当然休むべき休暇を彼に与えなかったのか。
 [第5章]

 彼はやがて疲れ果てて故郷に戻ってゆく。かつて群を抜いてトップだった誇りも、今は人々の笑い種にしかならない。そうした苦しくも懐かしいひとときの休暇を過ごした後、機械工として仕事場に入る日が近づく。

あれほどの苦しみも、勉強も汗も、あれほど身をうちこんだささやかな喜びも、あの誇りも功名心も、希望にはずんだ夢想も、なにもかも無駄になり、結局、すべての仲間より遅れ、みんなから笑われながら、いまごろいちばんびりの弟子になって仕事場にはいるというのが、けりだった。
 [第7章]

 『車輪の下』の題名が表すように、消え入りそうな小さな魂が過酷なシステムの車輪に踏みにじられてゆく――こうした胸が締め付けられるようなハンスの境遇はずっと最後までつきまとい、やがて悲劇をむかえる。

 何が悪かったのか。どこで間違ったのか。そう反芻して考えているうち、やがて「ハンスのような境遇の少年を救い出す手だては無いのだろうか」という、現代の問題に行き当たる。優等生の教育が難しいのは、学校の中で慢心を解消することが難しいからだ。そしてこれは学校という範囲にとどまらず、社会全体が抱える命題であることにも気付く。
 ハンスの気持ちをほんの少しでもくみ、心を通わせ、手を差し伸べる者がいたら・・・そう思う気持ちを、現実に自分自身が持ち続けることができたら、と思う。

引用:高橋健二 訳/新潮文庫

[Shinsui]


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