忘年会真っ盛りのこの時期、いつも考えさせられるのは、なぜ年を忘れなければならないのか、という素朴な疑問だ。せっかく苦労して、なんとか年の勢までこぎつけたのに、何も年を忘れるために飲むことはなかろうと思ってしまうのだ。
もちろん、忘れるのは日頃のウサであり、辛い気持ち等であることは重々承知してはいる。仏教的に言えば、煩悩に汚れた業を少しでも洗い流せないか、と図る集まりなのだろう。しかし、嫌な思いの中にこそ宝がいっぱいつまっている、煩悩即菩提、ということを知る私としては、忘年会という言葉からまず変えて、今年が次の年につながっていく一年として締めくくりたいのである。
そこで、忘年会に代わる何か良い名はないか、と考えていたところ、法話で聞いた高浜虚子の句が頭に浮かんだ。
『去年今年貫く棒の如きもの』(※去年=「こぞ」)、うん、これだ! 同じ読みで「棒年会」はどうだろう。
これも仏教的に言えば、同じ轍を踏まないための智慧の集まりであり、永代に渡って相続してゆく真の宝である。無始より貫かれて、私の中に入り満ちて働き続ける棒の如きもの。代々受け継がれていく仏性の歴史。―― これは単なる業の積み重ねではなく、むしろ業を浄じ、泥田に咲く蓮華の如く、生活に新たな彩りを加えてくれるもう一つの報い、本願の報いだろう。
そうなると、酒など飲んではいられない。酔いつぶれるなどもっての他。皆で集まって、雨安居明けの僧自恣よろしく反省会をしよう・・・って、「そんな会に誰が集まるかー」という声が聞こえてきそうであるが。
[Tetsubuta]