平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成16年5月1日
最近、というよりしばらく前から気になっている言葉がある。「超」の字だ。多用され過ぎていないか?
ただし私が言いたいのは、「チョー ムカツク」とか「チョー カワイイ」というように、物事を強調するために使う場合ではない。これは単に耳障りなだけで気になる程ではない。むしろ「超える」というごく自然な、ある意味良心的に使われている言葉が気になるのだ。
例えば「民族の違いを超えて」とか「宗教の違いを超えて」という言葉を聞く。この場合、大抵「同じ人間じゃないか、民族が違ったって、宗教が違ったって理解しあえるよ。仲良くやろうよ」という意味が込められている。その意見自体に問題はない。しかし、「違いを超えて」と言っている本人が、どういう視点・立場でものを言っているかは問題となる。つまり、「違いなんて問題じゃない」とか「今までの経緯は関係ないじゃないか」という安易な考えで言っているとしたら、実はこれほど傲慢な態度はない。これでは「超えて」ではなく「無視して」という意味になってしまう。これは双方の歴史を意味の無いものとして破棄し、「とにかく仲良くすればいいじゃないか」という自分の期待を押し付ける考えであり、ある意味、恥ずべき安易な態度なのだが、言ってる本人は気づいているのだろうか。
本当に「超える」というのは、互いに相手の歴史を理解していくことでしか成立しない。「民族の違いを超えて」と言えば、それは互いの民族の歴史を理解することであり、「宗教の違いを超えて」も同様の条件が必須となる。しかも、長所だけではなく欠点も見えなければ本当に理解したことにはならない。そして「超えた」と言うのは、互いの長所を褒めつつ欠点を指摘しあう関係になることに他ならない。褒めるだけで相手の欠点を指摘しなければ、それは表面的・功利的な関係に過ぎないだろう。
またこれは「グローバル・スタンダード」という「地域性を超えた」とされる尺度についても考えさせられる。世界標準というのは、本当に世界中を理解して地域性を超えた尺度なのか、単に歴史の綾を削ぎ落として突き進む傲慢な尺度なのか。発言者の視点・立場を見極める必要があるだろう。
根が同様の問題に、たとえば仏教では「分別を超える」ということをよく言う。「人間の分別など依りどころにならないから、分別を超えなさい」というのだ。これも言葉自体に問題はないが、「分別を超えて」と言っている本人が、どういう視点でものを言っているかは問題となる。
もし、「分別など、覚るには全く役に立たないから捨てなさい」という意味で言っているのだとしたら、それは超えることにはならない。超えるというのは、理解してはじめて言えることであろう。「分別とは何か」、「どういう経緯で私は分別をつけるのか」を、心を至して思惟していけば、分別の限界が見えてくるのだ。こうして分別の経緯が解りその限界が見えたことが「超える」ということに他ならない。
つまり、分別の限界が見えるというのは、裏を返せば分別の限界を超える智慧を身に得た結果であり、またその智慧を得さしめるはたらきに出遇ったことの証しとなる。その内容は、初めはぼやけてよく見えないが、時を経るごとに身に満ち、どこでどんなはたらきをしているのかが解ってくる。常に私の背後から私をつつみ、同時に私に成り切ってはたらく「何か」。これは、人間の分別を通して分別を超え、しかも永く衆生の身をたどりたどって我が身に届けられた尊い心である。
しかし、安易に「超える」という言葉を使用すると、超えるどころか「台無し」になってしまう。現在こうした台無しにする意味で「超」を使う人が多くその危険性を懸念するのだが、念仏者は大丈夫だろうか。
「釈迦に説法」であれば良いのだが。
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