平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

以前 他サイトに掲載していた内容です

[index]    [top]
【特集】

平成12年10月11日

東海豪雨のもたらしたもの

― 豪雨から1ヶ月経って ―

雨がこれほど恐ろしいとは

 2000年9月11〜12日にかけて、東海地方を「百年に一度」の集中豪雨がおそいました。これは、停滞した前線に、南大東島付近の台風14号の影響で暖湿流が次々流れ込んだため起った豪雨でした。台風の位置がもっと近辺であれば風は山を越えていくのですが、超えられなかった暖湿流は濃尾平野に滞り、逃げ場を失ったため豪雨と化したわけです。
 実は今年(2000年)は東海地方の夏季の降水量は極めて少なく、7月〜9月9日までの積算降水量はわずか98mmで、節水や一時断水の話も出ていた状態でした(7月は平年213mm、8月は145mmの降水量)。ところが11日からは文字通り降って沸いた集中豪雨。渇水状態から脱せられて良かったと思う間もなく、雨はどんどん降りを増し、建設省槍ケ入観測所(岐阜県上矢作町)では9月11〜12日の2日間の降水量が595mmを記録しました。

 この豪雨による被害は、名古屋市西区の新川などで堤防が決壊、また各地の河川の水が堤防から溢れ、広い範囲で浸水が発生しました。浸水家屋は愛知県だけで約78000棟に上り、岐阜県や長野県でも多数の河川道が浸水し、土砂崩れ、崖崩れも発生し、多くの集落が一時孤立状態となりました。

 被害の状況

 とにかく、あんなひどいどしゃ降りは私も経験がありません。たまたま外へ行く用事があって出ましたが、傘は壊れそうなほど重く感じられ、道路が次第に川の様相を呈していくのには驚きました。雨の力など軽く考えていたのですが、集まって流れになると、とても人間の力で対抗できるものではありません。
 そうした恐ろしさを分かっていただくため、被害を受けられた方や、ボランティアに参加された方の声を集めてみました。まだ充分な情報量とはいえませんし、まとまりがついた文章ではありませんが、今後に生かしたいと思い、以下列挙する形で掲載させていただきます。

 ボランティアに参加して

 ボランティアの仕事は、まず浸水してきた家の畳などを外に運び出すこと。とにかく物が散乱しているので、そうした片付けが最初の仕事となります。そのためしっかりしたくつ(スニーカー等)を履き、長袖・長ズボンで、帽子も被っておいた方がいいようです。
 持っていくものは軍手、タオル(あれば数枚)、着替え、ゴム長靴、マスク、ビニール袋などが必需であり、一日仕事をする場合は弁当、水筒も持参しておいた方がいいようです。また地図、メモといったものも準備しておき、あればリュックに入れて持ち歩くと便利です。

 悲しい言い伝え「おたいしごと」

 今回の災害で「小田井仕事」(おたいしごと)という名古屋の方言が注目を集めています。これは今回の豪雨で被害の最も大きかった西枇杷島町の小田井(「電車でGO 名古屋鉄道編」にも出てきます)地区のことに関連するのですが、江戸時代は豪雨の時に名古屋城下を水害から守るため、小田井村側の堤をわざと決壊させるよう尾張藩から命令が下ったということです。しかし彼らはなるべく堤を切らず水位の下がるのを待っていたので、「小田井の人足は仕事が遅い」と、非難されました。
 しかしそれは自分たちの家や田畑を守るために仕事をしなかただけで、当人たちにとっては当然の行為なのですが、「おたいしごと」という言葉が一人歩きして「怠慢な仕事ぶり」を表す方言となってしまいました。小田井は昔から水害と風評の二重の圧力に悩まされ続けてきた地区なのです。

 そうした方言が生み出された「人間社会の環境」は、河川に隣接するという「自然環境」以上に、人々に苦難を強いてきたものでした。まして今回は「被害を受けた西枇杷島町で災害に便乗した不法投棄まで相次いでいる」ということを聞きます。そこで今度の水害を機に、そうした社会(私)の体質について思いをめぐらせ、被災者を慮ることなく不当なレッテルを貼って済ます私たちの無知についても見つめていかなければ、と思いました。

[Shinsui]

[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。

浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)