平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

以前 他サイトに掲載していた内容です

[index]    [top]
【特集・コラム】

平成14年9月17日

声明の奥深さを実感

― 巡讃資格試験講習会で学んだこと ―

 慢心が成功をはばむ

 先日(9月2日〜9月4日)、本願寺名古屋別院(西別院)で行なわれた巡讃資格試験講習会に行ってきました。巡讃資格というのは、本山や別院で内陣出勤できる資格で、逆に言えば、この資格を持たない者は別院等の内陣でお勤めができない訳です。
 本来なら、京都まで出かけて取得すべき資格ですが、10月19日(土)〜20日(日)に行なわれる二法要(蓮如上人五百回遠忌法要、本堂復興三十周年記念法要)の関係で、名古屋でも取得できることとなり、この機会を生かすことにしました。

 あらかじめ送られてきた時間割表を見ると――
一日目が、「正信偈 草・行譜」、「礼讃 初夜偈」、「無量寿経作法」、「作法」、
二日目が、「阿弥陀経作法」、「葬場勤行」、「奉讃大師作法、正信念仏偈作法」、「御文章、御伝鈔」、
三日目が、「大師影供作法」、「五会念仏作法」、「まとめ」、「筆記試験、実演試験」、
とあり、朝9時から夕方4時までみちりと講習が入っています。

 実は私は普段から声明の練習は欠かさず、月に一度仲間の僧侶同士で集まって練習をしていました。そのため、今回の講習会や試験を甘く考えていて、「講習会の場で勉強すればいい」と気にも止めないでいたのでした。
 ところが、私の横で、やはり同じく資格を受けに行く母は、ねじりはちまき状態で約1ヶ月を過ごしたのです。法式規範とにらめっこして赤線を引き、「蝋燭」や「柄香炉」「灯籠」といった漢字を憶えながら差定を暗記し、手を尽くしてテープやCDを入手し声明の練習に励むのですが、その姿は痛々しいほどでした。

 こうなると、昔話にもある「慢心が成功をはばむ」の論は私に襲いかかり、講習会では音の微妙な音程に苦労したり、我流の節で読んでいた御文章の癖は中々取れず m(__)m 、試験で「聖人一流章」を読むのにまさか緊張するとは思いませんでした。
<ふん、なんてレベルの低い話・・・>と思われるかも知れませんが、何とおっしゃるうなぎ屋さん。一度、自分の声をテープに録音して正式な声明と聞き比べてみましょう。けっこう自分流の節がついているのを発見し、愕然とするかも知れません。それに、自分流と分かっていても癖は抜けず、いざという時出てしまいますので、普段から音程や長さをきちんと取るように心がけましょう。

 講習会で印象に残った話

 講習会で印象に残ったことは、まず、声明の譜は、本山など大伽藍の中で称えることを前提としていて、後ろの席の人たちにも聞こえるように工夫されている、ということです。
 例えば、和讃の「仏光照曜最第一」というところ、普通なら「ぶっこうしょうようさいだいいち」となるところですが、「しょうよう」と言っては聞きとりにくいため、「せうえう」と割って称える。すると、堂内では「しょうよう」と聞こえるということでした。また、同様の意で「アタリ」があったり「カナ上げ」があるということです。
 声明の節の決まりにはそれ相応の理由がある、ということが、けっこう新鮮に思えたのでした。

 また、声明には、厳密には0.7〜0.8音の上げ下げという箇所があるが、そこに神経を使うと、次に一音下がる時に音が取れなくなるから普通は試みない。しかし時にはそういう声明の奥深さも味わってほしい、ということでした。確かに西洋音階上で機械的に音を取るだけでは、お経の味わいは出ません。息づかいや気迫の感じられる声明にしたいですね。

 ところで、本山や別院の内陣出勤の際、持参できる経本は決っていて、『小本和讃』や『声明集』等、本山製作の本のみです。本の最初に龍谷の印が押してあるのがそれで、普段使っている永田文昌堂の『声明集』や『龍谷勤行要集』は練習用ということでした。
 実は正式な『声明集』には仮名がふってありません。節の記述も基本的に見にくく、これですらすら読むためには、節を丸暗記するか、持参の声明集に譜(いわゆる電線譜)を書き込むしかありません。おそらく本番ではその両方をしておかないと上がってしまい、普段通りには称えられないでしょうね。やはり勉強不足はどこかで馬脚をあらわします。

 そして、今回もどうしても読むことが難しかったのが「阿弥陀経作法」で、漢音[かんおん]に不慣れなのと、全くもって不敬ですが、「バーカーボッケンレン、バーカーカーショウ」など、尊称である「摩訶」を「バーカー」と読むところで、思わず吹きそうになるのです m(__)m 。
 ここ、何とかしないと、一生「阿弥陀経作法」は読めないかも知れない・・・

 声明のレベルが低下?

 講習中に先生から指摘があったのですが、本願寺の声明全体に関するもっぱらの評判は、「年々レベルが下がってきている」ということです。この事態に対応するため、もっと見やすい譜の付けた『声明集』が製作され、近々発売されるそうですが、これを本山や別院の内陣に持参可とするかどうかは検討中、ということです。
 現代は、テープやCDで何度でも練習できる環境にあるのですが、それでもレベルが低下する原因はどこにあるのでしょう。

 第一には練習不足。これは確かに挙げられるでしょう。しかしもう一つの原因は、<西洋音楽に慣れ親しんだ耳には声明の譜が身近に感じられない>という面もあるのではないでしょうか。
 声明の音程に苦しんでいる人たちも、カラオケに行けば踊りながらモー娘やあゆやヒカルの歌を熱唱し、GLAYやサザンを歌い上げているのです。

 どっちの音程の方が複雑か、などとは問うまでもありません。楽譜に直せば一目瞭然。声明は基本的に5つの音で構成されていて、とてもシンプルなのです。現に西洋楽譜になった声明集も出版されていますが、音符に直すと至極単純に見えます。
 逆に、西洋音楽を声明譜で表わすとしたらどうなるか? (誰かトライしてみよう)と考えれば分かる通り、皆が唄えるような歌でも声明よりは余程複雑な音階です。そういう意味では、現代人は音楽的には経験豊かな環境にあります。僧侶もその中で生活しているのですから、複雑な表現を好んでも良さそうなのですが、実際には「画讃」のようなちょっと複雑な節だと暗記して称えられる僧侶は中々いないのではないでしょうか。

 こうなると、どこかに西洋音楽と声明の接点を見いだす必要があるかもしれません。そうしないと、今後の人たちはますます声明とは縁遠くなり、当然のようにレベルが下がり、結果として聞いている人はますます魅力を感じない、という悪循環に陥ってしまいます。

 レベルを上げる方法

 ところで話は飛びますが、幕末の頃、日本人と西洋人の音楽の出会いは、実に屈辱的なものでした。浮世絵や美術工芸品には魅せられた西洋人でしたが、こと音楽となると身も蓋もない酷評を吐いています。

[日本人の]一人が歌を歌いだした。すると、一人がこれに拍子を入れて、全員が唱和した。一体これが音楽なのだろうか。このような歌が人を楽しますのだとすると、日本人の情感も中国人同然である。

(『ペリー日本遠征随行記』洞富雄訳/雄松堂書店)


音調の十中九までが調子はずれと思えるような、西洋の音曲とは全く異なった一連の音程からなる日本の音楽にヨーロッパ人の耳をなれさせるには、よほどの長い年期を必要とするだろう。

(『外交官の見た明治維新』上、坂田精一訳/岩波文庫)

※ 資料:「はやり歌」の考古学(倉田喜弘著/文藝春秋)

 これは日本人にとっても中国人にとっても腹の立つことおびただしい評で、西洋人の押し付けた「東洋人劣等論」を思い起こさせますが、残念ながらこの文化の差は自ら招いたことでもありました。
 西洋では、バロック時代から調性理論と平均律音階が用いられ、古典派、ロマン派の流れの中で、バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ショパン、ブラームスなど、今も盛んに演奏される交響曲やオペラを基盤に音楽文化が流布し、パガニーニやリストが超絶技巧の曲を世に送り出そうとしていた時代です。
 比べて日本では、「音楽は風紀を乱す元凶」とばかり、江戸幕府は基本的に音楽を軽視し、度々弾圧を加えてきました。明治時代になっても、楽師は「社会最下の位地」とされ、蔑まれてきたのです。今日のように、歌手が皆のカリスマ的存在になる、などという環境にはありませんでした。

 このように、江戸から明治時代にかけては一般的に日本人の音楽的素養は低かったと推定されます。おそらく庶民が大勢でいっしょに声を上げる文化は声明しか外にはなかったのではないでしょうか。こうなると、声明以外の音楽的要素はほとんど体験がない訳ですから、ここに集中して学ぶ環境があったのではないでしょうか。

 比べて現代は西洋音楽全盛ともいえる時代です。例えばCDを買いに行っても「宗教音楽」のコーナーを探せば、賛美歌やバロック音楽は山のようにありますが、声明や雅楽のCDは一体何枚あるでしょう。学校教育ではようやく和楽器を取り入れる動きが始まりましたが、中心はどうしても西洋音楽です。歌謡曲も基本的に「ハ長調」「ヘ短調」など西洋音階でできていて、間違っても「平調・律曲」によって作曲されたロックなどありません(・・・と思う)。

 こんな環境ですから、声明のレベルを上げるには方法は二つしかありません。
 一つは、西洋音階を中心に声明を新たに作譜する、いわば仏教讃歌と伝統声明を融合した譜にするのです。理想を言えば、生活の中でも歌えるような、一般の人もこぞって買い求め、口ずさめるような譜にしてほしいと思います。
 もう一つの方法は、子どもが西洋音楽を聴く前に声明を叩き込むことです。「雀百まで踊り忘れねえぞ」というくらいですから、子どもの頃に徹底して声明を聞かせれば、一生その譜は身に着きます。星一徹かチチローかというくらい鍛え上げましょう。

・・・最後の章はちょっと脱線しましたが、とにかく声明の奥深さを実感しながら、中々自分で表現できないもどかしさをおぼえた3日間でした。ちなみに今現在、資格試験の合否結果はまだ出ていませんので、少々心配なのではあります。

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)