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【コラム】
平成11年1月16日

小学校時代の思い出

子どもの発想と社会

 子供の頃の思い出というのは、大イベントから順に記憶している訳ではない。何気ない日常の『ひとこま』が、何故かそこだけ鮮やかに残されている。そしてその記憶は時として様々な示唆を与えてくれる。

◆ げた箱の片隅で

 小学校時代の記憶に、げた箱の思い出がある。

 朝礼のあと生徒達が、げた箱に帰ってくる。薄暗い空間に朝の光が射していた。冬は影も長いが、ひさしを通る光の入りも長い。おまけに空気が乾燥しているので、何百人のほこりが空間に舞っているのが浮かび上がる。
 息をすると、吐く時は怪獣の攻撃みたいに思えて面白いが、吸う時は、このほこりが大量に鼻に入るので気色が悪い。
 友達は「こりゃたまらん」と、日に当たっていない場所に逃げ込み「ここはほこりが無いから大丈夫」とうそぶく。しかし見えなくてもほこりの量は当然同じである。
「お前、アホだなー」と、友達の安易な逃げ場を馬鹿にしたが、確かに私も日に当たらない場所へ行くとほこりが気にならない。友達の手前黙っていたが、理屈と本音は違うということを何となく知った最初の出来事だった。そして暗闇という所が、とりあえず目障りなものを消してくれる魅力的な場所に思えていたのもこの頃だった。

 ほこりが『見えないこと』と『無くなること』が同じでないことは頭では分かっていた。しかし当時の私の感覚では『見えないこと』は『無くなること』と同じだった。理屈はどうあれ本音は同じだった。
“幼い”と思う。が、まあ、それは小学生だったから仕方ない。
 しかし、もし大人になってもこの気持ちが変わらないとしたら問題であろう。『大人になる』というのは、『問題をごまかさない人間になる』という側面がある。

◆ どっちが強い?

 子供は『遊び上手』と相場が決まっていた。「今の子は与えられた遊びしかしない」と言うが、案外大人の知らない所で、すごい遊びをしているのかも知れない。

 と言うのも、私たちの周りで面白い遊びが作られ流行ったことがあるからだ。
 例えば動物図鑑を借りてきて、互いに「イッセーノ、デ」で適当なページを開ける。そこに載っている動物同志がもし戦ったら、どっちが強いか? というゲームである。
 これは単純そうに見えて奥が深い。羊とライオンなら単純にライオンが勝ちであるが、ライオンと虎はどちらが強いか分からない。
「ライオンの方が大きいから強い」と一方が言うと、「虎の方が素早いから強い」と言い争いになる。ハブVSマングースも、必ずマングースが勝つ訳ではないし、ワニVSサメなどは想像もつかない。動物の対戦順でも勝敗は変わるのだが、最後は口の達者な奴が勝つ。ただし相手が恐竜の時は、どんな押しの強い子も黙ってしまった。
 この遊びを数値化してルールを決めると、ロール・プレイング・ゲームになる。『子供の発想』というのは本来、創造的な種を宿している。

◆ 決着をつける

 しかし、よく考えると、「虎とライオンがどっちが強いか」などという論争は、野生の世界では無意味である。何故かというと、虎とライオンは住む世界が違うから争わないのである。動物は無駄な争いはしない。強い奴をわざわざ探して戦いを挑む、という余裕は野生では生まれないのだ。

「それでも、もし戦ったら」と、考えるのが人間である。だから格闘技の世界一は? などという興行に皆が飛びつく。人は何故か子供の頃から『決着をつける』ことが大好きなのである。

 ただこの決着癖が、国や宗教レベルで無制限に噴出すると大変な悲劇をもたらす。国対国の戦争、また宗教戦争などという矛盾した争いも人類は繰り返し経験してきた。「どっちが強いか?」、「どっちが正しいか?」という、付けなくてもいい決着を付けて歴史は動いてきた。
 本来、何千キロも離れた相手に「自分の強さや正しさを押し付ける」という発想自体が不自然である。だがこの不自然な発想から人類の文明が生れたとも言える。

『現代文明の問題』を語る時、本質的にはまだ『子供の発想』の面白さと危うさを同時に持っている点にある。人は果たしてこの文明を『本当の幸せ』に繋げていけるのかどうか。それこそ決着をつけなくてはならない。

[Shinsui]

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