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【コラム】
平成11年5月8日

面会謝絶の訳

― さらけ出された尊さ ―


◆ 哀れな姿?

 病気の人が『面会謝絶』とあれば、誰しも“重傷重病のため”と推測するだろう。ところがそうでない場合もけっこう多い。本人が“ 皆に会いたくない ”という意向が表れた場合である。

 先日、そうしたケースに出会ったのだが、よくよく聞いてみると、単に人を避けているのではなく、 このような哀れな姿を皆にさらしたくない ≠ニいうのが理由だった。
「そういえばオシャレな人だからなあ」と、皆が言う。病身をさらけ出し、皆に不快な思いをさせたくない、と思っての事だろう。私も人の価値観は様々に違うし、それぞれの美学なるものを尊重する≠ニの立場から、異をとなえることはしなかったが・・・

◆ 過酷な老少不定の真実

 先日、大学時代の友人が逝去した。通夜にお参りさせて頂いたのだが、まだ30代である上教師をしていた関係からか、大勢の弔問客があり、中には号泣が止まない教え子たちもいた。普段『死』を意識していない若者にとって、それは衝撃的な事実だったかも知れないが、大勢の号泣には別の事情もあった。

 地方によっても、また人によっても異なるかも知れないが、通夜の席で弔問客全員が遺体を拝見することができたのだ。闘病しながらも教師として責務を果たしていたその美しい思い出と、目前に横たわる遺体の姿は、多くの生徒にとって過酷な老少不定の真実を突きつけられた思いがしただろう。
 そして「久々に夫の和やかな顔を見ました」という奥さんの言葉を聞かせて頂き、あらためて病と死のご縁の厳しさを知った。私も僧侶として多くの遺体と出会ってきたが、身内や友の死に顔を見るのはやはり辛い。しかし、顔をおがませてもらって良かった≠ニ、しみじみ思っている。

◆ 顔をおがむこと

 これには反対意見もあるだろう。どこかに生きている側の優越感がありはしないか?≠ニいうのだ。おそらく、ある、と思う。弔問客全員がそうであるとは言えないが、多くの人――(その中に私も含まれていたかも知れない)が、悲しみ以外の感情を持ち込んでいる。遺体を見つめる眼は実に複雑だ。

 それでも私は顔をおがませてもらって良かった≠ニ、やはり思うのだ。優越感からではもちろんない。病の縁によって本当にこんなにまでやせてしまう、そこまで生き切られたんだなあ≠ニ、尊敬の気持ちが湧き起こってきたのだ。

 とても生きている者では真似の出来ない素晴らしい顔である。
 決して一般常識で見る美しさとは違うが、真実がさらけ出された本当の美しさがそこにはあった。老、病、死の現実は、見下すような傲慢ささえなければ、見る側にとっても見られる側にとっても、決して「哀れ」でないどころか「尊い」ものである。

 教えの話になるが、信心得るものは正定聚不退の位に住するため必ず滅度に至る、と聞かせていただく。これは単に教えがそうなっている≠ニいうのではない、本当にそうなのだ。現実にこうして遺体を拝見させてもらうと、その思いを深くする。

[Shinsui]

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