「自信教人信」という言葉がある。これは、「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」とか「みづからもこの法を信じ、ひとをしても信ぜしむること」という意であると伝えられている。しかし「他人に信じさせる」ということに力点を置くと、自信が自慢に、さらに驕慢になってしまう恐れがあるのではないか。「俺は信じたゾ。さあ、お前たちも信じよ!」では、信の押し付けである。
これは宗教に名を借りた暴力で、我執が破れても、より悪質な法執に陥ってしまっている状態だろう。実際、この手の宗教の押し付けは頻繁に目にするところであり、こうした態度の果てに、人間の実生活を無視した理論武装が起こる。その頑迷さを知れば、信の押し付けは慎むべき、という認識ができなければ嘘であろう。
そこで今一度「自信教人信」を味わってみると、どういうことになるだろうか。「自ら信じたところを人に教えてゆくところにまた信あり」と解してみたが如何だろう。供養のないところに仏法の展開はない。「教える相手からこそ法は聞こえてくる」ともいう。拝む人こそ拝まれる人。伝道が一方通行にならないように、教える側の姿勢が問われるところだろう。
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