かなり前の話だが、今も私の脳裏にはっきり焼き付いている光景がある。
その日は多分休日だったと思う。私が気楽にバイクを走らせていると、目の前に突然、よちよち歩きの子供が赤信号で飛び出してきた事があった。あわててブレーキをかけると、際どいところで接触を避けることができた。しかし、ほっとしたのもつかの間、子供は足を速めて見通しの悪い反対車線まで入っていく。交差点に居合わせた誰もが最悪の結果を予想した。
だがその時、おそらく父親であろう、遠くから叫ぶようにして助けに走り、子供を抱くと、間一髪中央分離帯に倒れ込んで難を逃れたのだ。果たせるかな直後に車が高速で駆け抜けていった。反対車線の様子は全く見えなかったが、親は躊躇なく飛び出し子供を助けたのだ。本当に危機一髪、まるで映画のワンシーンを見るようだった。
◆ 何に安心していたのか
『一子地は仏性なり』
そんな言葉を思い浮かべて、帰り道またバイクを走らせたのだが、気になって帰宅後その和讚を読んでみた。
平等心をうるときを
一子地となづけたり
一子地は仏性なり
安養にいたりてさとるべし[浄土和讃]92
何度も読むにつれ、その言葉は「何故自分も バイクなど放り出して助けに行かなかったのか?」と問う声になって私に迫ってきた。接触を避けてほっとしたのは、一体何に安心していたのか‥‥ この思いは今も消えずに心に残っている。そして「信心を得ると私の何が変わるのか」と、真剣に問わざるを得なくなった。
信心は本当に理屈ではない、こんな狭い心の私だから変わらねばならんのだと気づいた。差別と偏見のない慈悲、平等心が我が身に満ちねばならん。『不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとし』という真実信心を是非ともいただかねばならん。
私も人の親となって、今こそ切にそう願っている。
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