平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成15年2月5日
仏教に関して様々な迷信があるのは知っているが、それを正すべき僧侶が堂々と間違ったことを述べては修整が効かなくなってしまう。ましてマスコミに出て喋られては悪影響は多大である。ご門徒さん一人一人に法を述べて回る身にもなってもらいたい。
先日、ラジオを聞いていたら、とある有名な僧侶が、法名についてとんでもない暴言を吐いていた。
一言一句覚えているわけではないが――「法名とか戒名というのは、死んでから地獄行き・極楽行きの判定を下す裁判をする時、俗名のままだと悪い過去がすぐばれてしまうから名前を変える。閻魔さんも馬鹿ですから、名前で誤魔化されてしまうんです。だから法名とか戒名って、大抵偉そうな名前でしょ。悪いことを散々した人ほど偉そうな名前が必要で、そのため金がかかるんです。だから私も親父も法名はつけていません」等ということを述べていた。
その僧侶、テレビやラジオで長年活躍している最長老の存在で、出版された本は数知れず、世界的なヒット曲も作詞し、他の分野では中々味なことも言のだが、こと法名についての暴言には唖然とせざるを得なかった。多方面で活躍するのは良いが、肝心の仏法を蔑ろにしては僧である意味が無い。何しろその人が真宗を名のるとある宗派の僧侶なのだから嘆かわしい。名前の重要性を認識していないのだろうか。僧侶なら、名に育てられ、名に自覚を促される、ということを語るべきだろう。
空を飛ぶ鳥に名前はいらない。地を駆ける獣に名前はいらない。しかし人間には名前が必要である。それは単に個体識別の為だけではない。識別だけなら番号で充分であろう。
生れた時につけられる名(俗名)は、親の願いが込められたもので、それは親からいただく尊い導き名である。子どもに「悪い子になってくれ」とか「虚しい人生でいい」などとは絶対に(大抵?)願うことはなく、「良い子になってほしい」・「優しい人になってほしい」と願い、それを名に込める。名前は常に呼ばれるので、その度に親の願いを聞くのであろう。人はまず俗名に育てられていく。
また、人は社会的な名においても育てられる。特に責任のある名(例えば親とか先生・住職・首相・横綱・名人等々)は、その名の持っている歴史に人間が育てられるのだ。これを座といい、仏にも仏としての座があってそれを蓮華座であらわす。
さらに、法名は仏教徒としての自覚を持つためにいただく名前である。仏教は、時流に流される人生から、自律的に生き方を創造していく人生への転換を勧める。そしてそれを正しい法に順じていくことで成就せしめる。仏教徒が法名を名のるのは、名を呼ばれる度に法の呼びかけを知るからである。見聞きすることで自覚が促されるのである。戒名は戒律を守ることを誓う名であり、それは戒律を重視する宗旨にとっては必然の名であろう。
もちろん、法名や戒名に伴う金額や院号等については様々な問題を含んでいるが、「問題があるから本質など無視して捨てればよい」ということでは、宝もごみも同様に捨てるようなものである。
先の僧侶の間違いを正すと、仏教徒として正しく信を得て正定聚の位についた者は、閻魔によって裁かれるような身ではなくなり、むしろ尊敬され守護を得る身になる。
南無阿弥陀仏をとなふれば
炎魔法王尊敬す
五道の冥官みなともに
よるひるつねにまもるなり
『浄土和讃』(104) 現世利益讃
法名は決して死後の問題ではなく、まして悪行を誤魔化す名ではない。生きている時に用いる名であり、法の導きを慶ぶ名である。得度した人は本来その指導者であるべきで、誹謗正法の罪の深さを知り、言動を慎むべきであろう。
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