平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

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【平成モニター】

平成19年11月21日

道草の時間

人形供養をたのまれて

 機械にも心が?

「気のせいでしょ」と言われればそれまでなのだが、自動車にも心があるのではないか≠ニ思わせるような事態が起こった。
 5年近く乗っている車だが、車検切れ前に買い替えを計画していたところ、いきなり30%近くも燃費が向上したのである。普段は1回の給油で400km程なのに、520kmの走行。それも3回続けて燃費が伸びれば、普段は冷静な私でも先のような邪推が起こっても仕方あるまい。寒さが到来しガソリンも高騰し続ける中、車は最後の踏ん張りを見せて私にその存在をアピールしているのだろうか。

「気のせいでしょ」と言われそうな事態はさらに起こった。
 長年使用してきたテレビが突然故障してしまったのだが、これが何と、ドラゴンズが53年ぶりに日本一になった日の翌々日である。いく度ものリーグ優勝とシリーズ敗退を見届けてきた私としては、シリーズ優勝を見届けるようにしてこのテレビは寿命を終えたのではないか≠ニ思われて仕方が無い。数日後、代わりに購入(日本一セールで格安で購入)した液晶ハイビジョンテレビの背に古いブラウン管テレビが運ばれていくのを見ると、まるで応援仲間を失ったような感慨が起こった。
長々とご苦労様
 経済的にも主人孝行なテレビに、私はそう声をかけずにはいられなかった。

 心なき身にも

イメージ図

 かつて西行法師は「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と詠んだという。出家の身である西行は本来情趣に[]かれることは戒めねばならんが、「[しぎ]立つ沢の秋の夕暮れ」に出逢ってしまえば心が動く。ま、それなら仕方ないでしょう≠ニいう共感を期待した歌であろう。対して、車やテレビへの私の思い込みは万人の共感を得るものではないかも知れない。それに道理なき邪推は邪推。ゆえに自動車は予定通り来年初頭には買い替える予定だし、ハイビジョンの驚くべき映像を目にした途端私は古いテレビへの執着は雲散霧消してしまった。

 結局人間は、不条理な理屈や余計な感傷は一定量で抑えられるようになっているのではないか。出家しようがしまいが、条件が整えば感傷はわくし冷静な人間にも邪推は起こる。また条件が無くなれば感傷は消えるし邪推もなくなる。要するにこの一定量≠ェ問題で、この量を超えてしまうと迷信に迷うことになるのだろう。そしてこの迷信に理論が加われば邪教となり、邪教を信じれば人生に深いダメージを負う。この一定量とは、人生に遊びと潤いをもたらす道草£度の心の余裕量であろう。

 条理・不条理を問う前に

 ところで先日のことだが、「お寺で人形供養をして下さい」と頼まれることがあった。人形は文字通り人の形を模したものだから、捨てる際にも何かしら感傷が湧くのは当然であろう。その人は、「要らなくなったからポイと捨てるというのは、人形が可哀想な気がする」とか「何か儀式的なことをせずに捨てるのは心苦しい」等の思いを持ってみえるようだ。
 この思いを全肯定して法要を営めば迷信の使役者となる。実際こうした迷信に理屈をつけて人々を脅す邪教は世に数多ある。仏教徒としてはこれは極力避けねばならない。迷信は正信の真反対と言ってよいからだ。仏教は邪推や不条理を排除する法に満ちていると言えよう。
 すると、迷信的な見方に対し「それは不条理な迷信である」と断じてしまうことは簡単だ。「不要となれば捨てるしかないし、人形供養は仏教の本質とは違う」と言えば、言っている側はこれが正論≠ニ胸を張れるかも知れない。

 しかしそうした躊躇の無さは人情と背離する。人間には複雑で愛着的な感情があるからだ。「心なき身」の出家者でさえ感傷的になる時があるのだから、まして在家生活を営む人々に愛着を排除させるのは余計なお世話になるだろう。むしろ不要になったからと全く感情移入せずに人形を捨てさせる方が無理がある。条理か不条理かを問う前に為すべきことがあるだろう。

「人形は後日燃やしますが、今まで人形を可愛がってきたことは決して無駄にはなりませんからね」
 そう言ってお経をあげさせて頂いた私の背に皆の温かな目が注がれていた―― これも気のせいかも知れないが。

[Shinsui]

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