平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成15年12月5日
虐待のニュースが、日々マスコミ等で取り上げられている。
親が、まだ幼い子どもを虐待して殺し、また、新しい伴侶が連れ子に暴力を振るう。泣くことでしか感情を表現できない赤ん坊に「泣き止まないので殴ったら死んでしまった」ということでは余りにも悲惨である。
虐待は「極端に暴力的な性格」という場合もあるが、本質的な問題としていえば、親が親としての役割を果たせるまで成長を遂げていなかった、ということに尽きるであろう。
親というのは、当然「大人」であらねばその役割を果たせない。身体は年月が経てば大人になるが、心の成長は千差万別。幼少期から針が動いていないのでは、と疑われる人さえいる。
そうすると、「最近の親はダメだ」という意見も出るが、実は子どもへの虐待事件は昔から多発していたのだ。最近ようやく事件として取り上げられるようになっただけで、つまり、家庭内で起った事件は、かつてはほとんど事故として片付けられていただけの話である。
ところで、「人間としての成長」と言うと、「もっと厳しく」という意見が出るかも知れない。しかし、むしろ「人間として安心して居られる」という環境こそがまずは人を育てていく。緊張し競い合うのは学校や社会に行っている時だけで充分であり、家庭内は「全てを包み込む心」で満たされていてほしい。家庭は基本的に回復の場所であろう。
そうした環境を得るためには、まず大人同士が、安心して過せる人間関係を形成していくことが先決である。大人同士が全面的に許し合えば、自然に子どもの存在も受け入れられてゆく。これは、自他全ての感情を肯定していくことであり、肯定しあう中で互いの心情を察する機会も増える。子どもが泣き止まなくても、「泣く」という行為を受け入れていれば、その心を理解する力も涌いてくる。
理解しあえば暴力的感情も力を失っていく、ということは日常で経験済みだろう。
感情というのは、否定されれば否定されるほど捻じ曲がって増大してしまう。孤独になったり、誰かを排除しようとすることが暴力の暴発を招くので、むしろこの負の感情があることを互いに認め合い許しあう方が暴力の実行を妨げ、暴力性が克服できるのだ。「お前は暴力的だから親失格だ」などと言えば、途端に暴力性が加速してしまう。これはあくまで最終手段を実行する時の言葉である。
ここでいきなり仏教の言葉を用いるが、如来の「
それゆえ、如来の願いをわが願いとし、如来の心をわが心としてつぶさに念じていくことは、子育ての場においても大切なことだと思う。互いに敬いあう場を創出するのは、実に如来のはたらきであり、浄土の徳の発揮であるのだから。
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