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【特集・コラム・資料】

四人の医者

― 宗教者に当てはめてみると ―

 同じ症状でも

 以前、父親が急病になった時の話である。
 車を運転していた父が、突然発作に見舞われた。急いで付近にあった医院に駆け込むと、そこでは「喘息[ぜんそく]」と診断がなされる。どうも「普段から喘息ぎみですから」という父の言葉を医者はそのまま鵜呑みにしたらしい。
 帰宅後薬を服用して休んでいたが、「どうも喘息にしてはおかしい」との周りの判断で、急きょ掛かり付けの医者に見せると「重度の肺炎」と診察された。レントゲンに写った肺が真っ白になっていたという理由からだ。
 そこで救急車で病院に搬送されたのだが、そこで全体的な検査をしてようやく「心筋梗塞[しんきんこうそく]」ということがわかった。しかしその病院では手術ができないという。そこで再び設備の整った病院に搬送され、後日心臓の専門医によって手術を受け、何とか命を長らえ今に到っている。

 この経験で学んだことがある。それは白衣を着ていても医者は千差万別であるということだ。もし「喘息」との診断を信じて心臓に負担の大きい薬を服用し続けていたら、父の命はすぐに途絶えていただろう。これは全くの誤診。
 次の「肺炎」という診断は、必ずしも間違いではないが、肺炎を起こしている元の原因を知らなければ誤診のうちに入るだろう。
 3番目の医者に至って、初めて正しい診察がなされるのだが、そこでは治療まではできない。
 結局4番目の医者のもとに至らなければ治療はできなかった。最初からここに行けばよかったのだろうが、そこまでの重症とは思わなかったのだ。

 真に頼れるもの

 以上は医療の話だが、宗教にも同様の種類があることを述べておきたい。
 まず最初の医者のように、誤診ばかりする宗教者がいる。いわゆる迷信をよりどころとして道理に外れた診断を下すのだ。『六方礼経』に、「わざわいが内から湧くことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かなことである」とあるように、自らを省みることなく他人や物事を変えようとする。良日吉日にこだわり天神地祇の卜占祭祀ばかり勤めとする。これでは浮ついた人生で、何も解決をもたらさない。
 つぎに、2番目の医者のように、患部の一部を見ることはできるが、全体を見ず、根本原因に至らない宗教者も大勢いる。「わざわいが内から湧く」ことは解っても、内のどこに根本的な問題があるのかわからない。他人を攻撃していた者が「自分こそ変わらねばならない」とか「こうあらねばならない」と現実の自分を攻撃し変革するようになるが、いわば奮闘努力型の理想主義で、生き方に無理があるのだ。これを仏教では自力の行者という。
 さらに3番目の医者のように、原因を探ることはできるが治療はできない宗教者もいる。奮闘努力型の理想主義ではいけない、自力では人生は完成しないと解かり、「無始よりこのかたの宿業」に眼がつくが、まだ業を浄じる真実報土に心が至っていない。真実の話は聞いたが、まだ自分の自覚になっていない未領解段階の人である。
 そして最後の4番目の医者のように、原因に至りその治療に成功する宗教者もいる。「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」等と自らの境地を語り、「ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと」等と広く大衆に語る。真実の報いを身に受け、泥田に咲く華のように、自らの身をもって真心の徳を体現し、それが多くの人々に智慧と感動を与えていく宗教者だ。

 人は皆、最後に紹介したような宗教者に出会いたいと、深きところでは願っている。そして、そのような人間に成りたいとも強く願っているのだろう。願いが真実ならば、様々な出遇いを経て、必ず果を得ることができるのだから。

[Shinsui]

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