平成10年12月5日
平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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アメリカとの開戦が、戦略的にも政治的にも著しく不利である事は当時の常識でも分かっていたはずだ。また近代戦争が国家破壊的な規模であることは第一次世界大戦で周知のはず。
おそらく日露戦争の後処理で戦利を得られず、人種差別撤廃の大義も、ナチスドイツと同盟を結ぶなどという失態から、冷静な判断ができないまでに追い込まれてしまっていたのだろう。
また理想の高さが災いして古来よりの警告を忘れ、外交に細やかな気配りがなかったことも原因か。もちろん連合国側の悪質な封じこめ作戦で日本が追い込まれていたことは知っているが、もう少し耐え難きを耐え、時機を見て活路を見出せなかったのか、と今さらながらに思う。
一旦戦争やむなし≠ニ舵が取られると方向転換が施せない事情となり、この強大な流れに「仕方なく」屈して開戦してしまった。その上、宣戦布告が遅れるという大失態でだまし討ち≠ニして語られる事になったその奇襲は、前後の戦争も含め、現在の日本人にまで道義的責任≠負わせる結果をもたらしてしまった。
奇襲攻撃をめぐる状況は、アメリカ側も単に「寝耳に水」ではなかったし、むしろ攻撃を誘発させていた事は公開された資料でも明らかだが、そうした戦略以上に問題だったのは、破綻する事が分かっていながらその流れを変える事ができなかった思考の硬直性であり、政治力不足である。
分かっていながら流れを変える事が出来ない――これは、残念ながら今の日本にも、世界にも当てはまる状況である。
その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。ご存知の通り、ゴータマ・シッダールタ太子は、物質的には何不自由ない生活を送っていながら、老・病・死の避けられないことに気付き、『老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求める』ことを決心し、出家された。
しかしその戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。それは太子35歳の年の十二月八日の朝のことであった。
さらに人生の問題として言えば、惰性で生きるのは転がる玉と同じで、動いてはいるが生きていないのと同じことである。「このままで良いのか」、「この方向で良いのか」と問い、新たな生き方を創造し続けることが生きるということだ。
分かっていても「仕方がない」と手をこまねいて破綻の道を行くのか、それとも自分の生き方を変え組織や社会を改革してゆくのか。
12月8日に起こった出来事からは、様々な未来像を想い描く事ができる。
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