平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成17年5月9日
4月25日に起きたJR西日本の脱線事故によって、「世界一正確で安全」と言われてきた日本の列車運行システムにも様々な欠陥があることが露呈されることとなった。
まずは、誇るべき長所であったはずの定時運行が、運転手には苛烈なプレッシャーを与える問題点でもあったこと。同様の問題に、過密なダイヤ、車両の軽量化、そして運転士教育にも問題点があることが指摘されることとなった。
指摘を受けてJR西日本では、安全を優先する企業風土の構築、運転保安システムの整備、列車ダイヤの見直し、安全を担う人材育成教育指導のあり方、情報伝達のあり方等の改善を発表した。
これらの課題については各報道機関も連日真摯に伝えて来た・・・はずだったのだが、5月5日の「車掌区長ら43人事故当日ボウリング大会をしていた」という報道あたりから雲行きがあやしくなった。
続々と漏れる非常識な情報――「事故発生を知りながらJR職員が海外旅行へ行った」とか「宴会をしていた」「ゴルフを・・・」「国会議員も・・・」など、関係者の行動は確かに道義的に不適切で、被害者や遺族にとっては怒りを覚える行動だろう。しかしそれらは報道の主軸にしてはいけない問題であるという点は忘れてはならない。
つまりこうしたことは人間性の問題であり、あえて広く報道する事柄ではなく、内省や自覚の問題であるということだ。いくら他者が厳しく指摘しても変革できるものではなく、自ら省みて体質を改善しなくてはならない。マスコミはあくまで事故の再発防止と、被害者・遺族への補償やケアを語るべきで、職員個人の行動まで一々
具体的には、事故現場周辺の住民たちの救助努力を報道すれば被害者・遺族の心情は少しでもほぐれるのに、冷酷だった人たちの行動を騒ぎ立てれば心の傷はより深くなってしまう。
これは私も経験があるのだが、身内を亡くした家族の心情というのは、実は他の誰にも同感され得ないものなのだ。いくら同情を口にされても、相手の同情と自らの心情には次元の違いがある。誰も他人の心情と完全に同感することはできないのに、解ったふうな口をきかれるとかえって孤独感を深めてしまう。まして感情を逆なでするような人の事は聞きたくないのだ。これは深い悲しみを経験した人間であれば誰しも感じることだろう。
もし今回の事件や職員の行動を弾劾できる人間がいるとすれば、それは被害者や遺族のみであろう。彼らと同様の悲歎を味わっていない人々やマスコミは、「同じ会社の職員なのに」という理由だけで、これほどの罵声を浴びせて良いはずはない。
自らの胸に手を当てて考えてみれば、私も彼ら職員と同様の冷酷さを持っているのではないか、と懺悔が出てくる。救助努力した周辺住民たちも人間ならば、救助を放棄した職員たちも人間。私はそのどちらの面も持つ人間である。そうであるなら先に述べたとおり、マスコミはあくまで事件の再発防止と被害者・遺族への補償やケアを最優先に語るべきで、傷を深めるような報道は控えてほしい。
また最近は、JR西日本職員への執拗な嫌がらせが続いているという。安全より利益を優先させてきた会社の体質は変革されなければならないし、トップの責任の取り方については衆目を集めてしかるべきだが、正義に名を借りた個人的いじめは暴力以外の何ものでもない。このことは社会の良識として留めておかねばならないだろう。
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