還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 8

至心に信楽するこころ

【浄土真宗の教え】

 至心に信楽するこころ

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

現代語訳
・ 信をおこして阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。
・ 凡夫も聖者も、五逆の人も謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。

意訳  「信心ひとたびおこりなば 煩悩を断たで涅槃あり
        水のうしおとなるごと 凡夫とひじり 一味なり」
一念喜愛心とは一念の信心の内容をあらわし、阿弥陀仏の救済を喜び愛でるこころをいう。」(註釈版二〇三頁)

不断煩悩・得涅槃とは、「煩悩を断ち捨てずして」・「無上大涅槃をさとるをうる」
と親鸞聖人は註釈されている。(註釈版六七二頁)

「煩悩」、わたしたちは簡単に諸事を《煩悩》の一語で片付けて済ませてしまう。この煩悩ほど身心を悩ませ、苦しめ煩わせるものはないのに、いとも簡単に切って捨てているのではないか。それでもってあたかも煩悩と決別したかのようにである。

「仏性を覆いつつむ煩悩に二種類ある。一つは知性の煩悩である.二つには感情の煩悩である。このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば一つには無明、二つには愛欲となる。無明とは無知のことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり見るもの聞くものをすべて欲しがる欲望となり、また転じて死を願うような欲望ともなる。この無明と愛欲をもとにして、これから貪り、瞋り、おろかさ、邪見、怨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、侮り、ふまじめ、その他色々の煩悩が生まれてくる。」(勝鬘経)

また、「貪り・瞋り・愚かさ」の三つはいわゆる三毒として煩悩の根源であるとされている。
人に仏性あり、その仏性を覆い尽くしているこの煩悩を仏の智慧により断ずる、すなはち煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ようとするのが大乗仏教の求めるさとりであるといわれる。わたしたち煩悩に覆い尽くされているものにとってその煩悩をみづからの力で断じ滅することはできないのである。その私たちに「そのままでよい。なにも煩悩を捨て去ることは無い」のだと「煩悩を断ち捨てずして無上大涅槃を得ることができる」、それが《至心・信楽・欲生の浄土因縁の三心、阿弥陀如来の大慈悲心》なのですよとお示しいただいているのが、この「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」二句のおこころなのではあるまいか。

わたしは教行信証 信巻を通じて「唯除五逆誹謗正法」といえども、「この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださる。謗法のものや一闡提であっても心を翻して如来の本願を信ずれば、みな往生することができる」(法事讃)ことを学ばせていただいた。(聞法ノート第二集)

いま正信偈の「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」の御文をいただくとき、親鸞聖人が「凡夫も聖人も仏法を謗り背を向けたものも、あたかも河の水が海に流入すれば海の水とまじりあって全く同じ一つの味になるように皆斉しく阿弥陀如来のご本願により願われ、救われて行くのだ」ということをお示しになっている奥行きの深さに感動する。聖人は信巻を通じてこのことを説いて行かれたことなのである。

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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