還浄された御門徒様の学び跡 |
仏告阿難 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼国 凡有三輩 ………
無量寿経の下巻はじめに本願成就文につづいて、上の書き出しで上・中・下輩三種のともがらの往生について説かれています。また観無量寿経には九品の往生が説かれている。大経の三輩往生をブレークダウンしたともおもえるが主意は少し違うようである。
家を捨て欲を捨て沙門となり、菩提心を起こし、一向にもっぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願う衆生。
仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。
▼以下意訳(現代語版)
また阿難に仰せになる。
「すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩・中輩・下輩・三種がある。まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい」
菩提心を起こし、無量寿仏を念じ、善を行い、仏を供養する・・・この功徳によって浄土に生まれたいと願う衆生。
仏、阿難に語りたまはく、「それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、ゾウ※を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。
▼以下意訳(現代語版)
釈尊が続けて仰せになる。
「次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
功徳は積めないが、菩提心をおこし、ひたすら無量寿仏を念じ、仏名を称え、浄土に生まれることを願う衆生。仏法を聞いて歓喜のうちに疑惑を生じない信を得る。
仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。
▼以下意訳(現代語版)
さらに続けて仰せになる。
「次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
このように家を捨て、あらゆる物欲を捨て、出家して諸々の功徳を修することのできない者、また仏法僧を供養し、善根を積むことのできない人々(下輩の衆生)であっても、無量寿仏を念じ、御みのりの深い御いわれをきいて歓喜信楽し、疑惑を生ずることなく、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心でもってその国に生まれたいとねがうものは、無量寿仏を仰ぎ見ることが出来、浄土に往生することを示し無量寿仏の徳を説き示されている。
観経においては――
下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく
『仏説観無量寿経』 正宗分 散善 下下品
▼以下意訳(現代語版)
次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける
とあります。
わたしたちは、日々のくらしのなかで決して清らかな暮らしをして行けるものではなく、常に身口意の「悪業」のなかに埋没している日々であります。
その私たちに、積善も必要とせず、「唯、念仏のみぞ」とお示しいただいていることなのである。
十方諸有の衆生は
阿弥陀至徳の御名をきき
真実信心いたりなば
おほきに所聞を慶喜せん
『浄土和讃』(二五) 讃弥陀偈讃
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