ご本願を味わう 第四十三願

聞名生貴の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字寿終之後生尊貴家若不爾者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、〔かの(仏国土以外の)他の仏国土にいる〕生き者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に、(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、(その時から)覚りの座を究めるに至るまでの間、高貴の家柄に生まれることができないようであったならば、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 諸師がたの味わい

昔から果報負けすることを、「肥やしが多すぎて、根ぐされになる」といっていますが、それだけではなく、「金がたまれば、たまるほど、心がきたなくなる」ともいいます。
 お経ではそれらの財産も地位もすべてが、人格を荘厳する材料となっています。
<中略>
「寿終って後」とあるのは、精神的な智慧や徳によって、そういう人格を成就することも、また社会的にそういう地位を築きあげることも、なかなか容易ではありません。けれどもこの二つは、人間としての永遠の理想ですから、その深い願いを「寿終って後」という形で表現したのでしょう。
 第二十四願の供具の如意は、真心の智慧による生活の無碍自在であることを誓っているのでしょうが、この願は、そういう生活に報われる果報としての、人格の高貴性と、境遇の豊かさを誓っておるのだろうと思われます。
 この願を見ても、今まで仏教が出世間の道とか、貧道といわれて、欲を離れるとか、この世の執着を断つことのように、消極的なものと思われていたのですが、それは出家仏教であって、大乗仏教ことに浄土教は、地上に浄土を建設してゆく積極的なもので、四十八願の一つ一つはすべて、人間の本来の願いが純化されたものであることが解るでしょう。
<中略>
 まして地上に「仏教王国」を――真実の意味においての仏教王国ですが――建設しようと思えば、どうしても「高貴の家に生まれる」ことが、必須条件となります。自分自身が「王者の精神」を身につけ、「人相」にまでその高貴性が現われてこなければ、決して人はついて来ません。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

・・・家ということですが、釈尊は、生れた家を捨てた人です。そして、生まれた家が亡びていくのを外から見ていた人です。では釈尊には家がなかったのでしょうか。釈尊の家は、み教えをよろこぶ人が集まっているところが家であったようです。み教えをよろこぶ人の集りを、サンガ(和合僧)といいます。このみ教えをよろこぶ仲間こそ、釈尊の家であったと思います。
 ですから、「尊い家柄」とは、み教えに遇い、自他の「いのち」を大切に生きている仲間ということです。それを言葉を変えれば、間違いなく仏になる人たちの集まり、正定聚ということでありましょう。
 「尊い家柄に生れる」とは、正定聚に入る、入正定聚ということであります。
<中略>
 この第四十三の願は、文字通り誤解を恐れず、これまで阿弥陀如来のみ教えに縁のなかった他方の国の人も、み名を聞けば正定聚に入るということを、「尊い家柄に生まれることができましょう」と説き、誓ってくださったのです。
 「命終って」とは、第三十六の願の中でお話しましたように、死後ということでなく、心命終、「儂が、俺が」の自力心が終ってということで、阿弥陀如来のお心に遇ったとき、すなわち、み名が聞こえたときをいうのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

・・・願成就の文をみてみますと、
法をききてねがひて受行して、疾く清浄処をえよ。(※四五)

とあります。『東方偈』という下巻の初めの偈文の言葉であります。これによると別に金持ちの家や位の高い家に生まれさせてやるということではなしに、この願の成就は、法を聞いて楽しんでその法を受けいただいてそれを行ずるようになるということであります。だから法を聞いて喜ぶ身の上になるということであります。
<中略>
 心が高貴になる、つまり気高くなるということが信心の幸せの徳ということです。名誉が高くて、大変お金があって、地位や位があっても、念仏の貴さを知らず信心のありがたさを知らない人よりは、信心を喜ぶ身の上になって落ち着いて満ち足りた心であるならば、この世界の中で最も幸せな者は私であります。
<中略>
ただここに寿終之後と書いてあります。けれども、親鸞聖人の思召しでは、寿終って後ということは、前念命終後念即生ということです。つまり信心の人を寿終わった人といわれるのです。自力の根性で日暮らしをしておった人が他力信心の人となって、そうして仏の御光の中に生まれて、仏と相遇うて幸せとなる。そういう人が寿終わった後の人であるということです。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 四五=浄土真宗聖典註釈版 P46 『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈【27】)

思想的なものでも何でもそうであります。自分がこういうふうに考えたことを人に教えた、そこにわが弟子、人の弟子という間違いがおこってくるのであります。しかしここで話すことは皆さんの公有物である。少なくとも私が皆さんに話して、皆さんが感激されるときは公有物であります。つまり皆さんのものであるべき思想を私が代弁するのである。公有思想である。その公有思想をあきらかにするとき、わが弟子、人の弟子ということはないのである。だから思想も公有である。財産も公有である。おのおのに与えられた天分をまっとうするということが、そのまますべての公有物であるという考えは、この私有財産主義、共有財産主義というものを、もう一つより高い立場にもっていくものではないだろうか。
<中略>
 だから必ずしも尊貴の者のみにかぎらない。貧しい者尊くない者でも、尊貴の家に生れることができる。尊貴の家に生れるということは、尊貴の心をもち豊かな心を持つことである。いかにも伸び伸びとした心をもち、そうして万事みな公である。大菩薩は大きい理想を持っているのでありますから、その理想を実現するためには、どうしても貴族的精神を持ち、貴族的な家に生れなければ、ものはわからないのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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