ご本願を味わう 序

本願全体について

【浄土真宗の教え】

 如来の本願を説きて経の宗致とす

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

『顕浄土真実教行証文類』 教文類一 大経大意 より

▼意訳(現代語版)
その(往相回向の)真実の教を顕さば、『無量寿経』である。この経の大意は、阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、広くすべての人々のために法門の蔵を開き、愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、釈尊はこの世にお出ましになり、仏の教えを説いて、人々を救い、まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。そこで、阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、仏の名号をこの経の本質とするのである。

 上記の親鸞聖人のお言葉にあるように、真実の教は『無量寿経』であり、「この経のかなめ」は「阿弥陀仏の本願を説くこと」です。仏教の本質が凝縮され、なお新たな創造性をもって編纂されたものが『大無量寿経』であり、それは阿弥陀如来の本願に集約されているのです。

 このような尊い願文ですから、多くの方々がその味わいを述べてみえます。そこで以後、四十八願を総合的に述べられた書を宗派を超えて集め一願ずつ紹介していきたいと思います。なお、諸師がたそれぞれの味わいに微妙な差異を感じることができると思います。私たちはその差異を縁として、あらためて法を学び領解を深める機会にしたいと思います。

 諸師がたの味わい

 今回は、仏教や本願全体についての味わいを、諸師がたの概説に学ぶことにします。


島田幸昭 著/能登印刷出版部 『仏教開眼 四十八願』 より

 たとえば自分の浅ましいことが知れるのは、仏の力であるということを説明するのに、昔はよく「松影の暗きは、月の光かな」という譬が引かれていました。「松の影」とは人間の浅ましい相、「月の光」とは仏の光明のことといわれているのですが、ここには一つの盲点がありましょう。もちろん月が出なかったら、松の影は地上には映りませんが、その影を見ているのは月ではなく、自分ではありませんか。龍樹菩薩が「刀は相手を斬ることはできても、刀自身を斬ることはできない。眼は他のものを見ることはできるが、眼自身を見ることはできない」と言っているように、この譬では影を見ている自分自身が見えていないでしょう。見ている眼は愚かではありません。救済の宗教は、すべて人間を愚かで罪の深いものと、否定的に見ているのですが、そこに問題があります。松には松の影は見えんでしょう。このたとえそのものに、欠陥があります。
<中略>
仏教では煩悩のことを、垢とか毒といっていますが、これはくせのことです。どんなに垢にまみれていても、私は垢ではありません。くせはくせ、私は私です。愚かな自分を悲しみ、浅ましい自分に泣いている、その悲しみ泣いている、それが本当の自分です。腹が立ち、欲が起こるのはくせで、腹を立てたくない、欲を起こしたくない、そう願っているのが自分です。この泣いている心、願っている心を仏性というのです。

(信仰と信心 より)


 仏教ではこのまことの人間らしい人間になりたいという仏性の働く心のことを、菩提心とも信心ともいうのです。光明とは自己が生れて来ると、自己に背くものが、自己の内に見えてくることですが、本願とは本当の人間になりたいという願いのことです。だからよく私にはまことがあるとか、わしはいついつご信心をもらったという人がありますが、そういうものはみな光明も本願も働かない、中身のからっぽの自己免許のまことや信心で、本当のものではありません。

(仏性とは より)


 大体、今日までは真宗に限らず、どの宗教でも、宗教と学問とは違うという立場をとっていて、学問を宗教の世界からボイコットして来ました。それにはいろんな事情がありますが、結論から言って、そういう宗教は、真実の宗教ではありません。学問とは何かということも問題ですが、本当の学問、生きた学問は、宗教以前の問題で、人間にとってはなくてはならぬ、それこそ必要にして欠くべからざるものです。学問とは、学び問うということでしょう。人生はそこから始まるとさえ言われているほどです。学問は正しく生きるためのもので、正しい人生観の確立をめざしているのです。正しい人生観は、生きてゆくための大切な基礎工事です。どんな立派な家を建てても、基礎工事を忘れたのでは、いざという時倒れてしまいます。今までの宗教は、この大事な正しい人生観の確立という問題を忘れていたように思われます。

(経典の読み誤り より)


仏教はお釈迦さまから始まるのですが、お釈迦さまが説かれた教えは、今日原始仏教といわれているものだといわれています。その教えは、「人生は苦である」ということを大前提として、その理由を「無常であるから」といっています。それは無常の世の中にあって、老いたくない、病みたくない、死にたくないと、若さに対し、健康に対し、生に対して執着するからである。「苦の本は欲にある」と、一切の執着を断ち、一切の欲を捨てて、何ものにも心乱されない、毅然とした自己を確立するために、出家して静かな涅槃の境地におることを教えています。
 こういう教えが、インドでは仏教教団の実権を握っていた上座部といわれる人々によって、七百年という永い間続いていたようです。ところが仏滅、釈尊が亡くなっておよそ二百年頃でしょうか、若い仏教徒の中に、それは正しくなお釈迦さまの教えを伝えたものではない。形や言葉にとらわれて、精神を見失ったものであると、批判的な立場をとるものが出て来たのです。中には権威主義に落ち入って、形骸化した当時の死んだ仏教に対して、真っ向から反対して、われわれこそ釈尊の真精神を伝えるものであると、改革運動を起こしたものもありましたが、それらは皆教団から弾圧されて、成功しませんでした。それらの堕落した教団を憂え、真実の仏教を唱えたまじめな人々は、教団を去って地下にもぐったのでしょう。あのたくさんな大乗経典は、そういう虐げられながらも、真実の仏教を後の世に伝えたいという悲壮な願いから、書き遺されたもののようです。それは永い間世に現れることなく、地下に眠りつづけていました。それが釈尊が死なれて七百年の後、南インドに龍樹菩薩という人が出て、初めてそれらの大乗経典が、日の目を見ることになったのです。親鸞聖人が「龍樹大士世に出でて」、初めて「大乗無上の法を説いた」と、感動を以て龍樹菩薩の徳を称えておられるのは、そのことです。それで後世龍樹菩薩を「第二の釈迦」と呼ぶようになったのです。

(仏教発展史観 より)


この五十二段の内容が解れば、今日真宗で問題になっているいろんな問題の大半は、ひとりでに解けると思いますから、話は何かうわすべりして進むようですが、できるだけかんたんにお話して見ましょう。
 五十二段というのは、仏になっていく順序を示したものですが、それはそのまま仏とはどういうものかという、仏の内容を明らかに教えようとしているのです。
<中略>
 菩薩の初めの十段を「信位」というのは、自己を信じて、自己を人間として成就してゆこうと、人生に希望を持って、願いに生きる位であるからです。信とは愛とか希望とか、真実とか徳とか願いのことといわれています。信に十段を分けるのは、自覚の程度に浅い深いがあるからです。たとえば初めから自分は尊いものであると、対自的自覚にはなりません。初めは尊敬することのできる人に遇うて、私もあの人のようにないたいという形で、仏性に火がつくのです。りっぱな人間になりたいという願いの中には、無意識ではあっても、即自的に自分を信じているのです。自分はだめだと思ったら、願いは発こって見ようがないでしょう。その信心のことを菩提心といい、この心の発った人を菩薩というのです。
 それではその菩提心がどうしたならば育ち、花を開かすことができるか、それには肥しが要ります。人間はたとい人間として生れても、人間としての教育を受けなかったら、人間にはなれません。その証拠は「狼少女」です。その肥しは解と行と廻向の三つとされています。
第一の「解」とは、解ること、学問することです。
<中略>
この位を住というのは、人生が解ることによって今までいたずらに明かし、いたずらに暮していたり、自分の置かれた場所から逃げたい、自己を嫌悪して自己から抜け出したいという心が薄らいで、私であてよかった。ここを外にして私の生きる場所はどこにもなかった。ここが私にとっては一番尊い、有難い場所であったと、生活の大地に足がつくからでしょう。
 第二の「行」とは、やって見ることです。習った知識も、自分でやって見なければ、自分のものになりません。
<中略>
第三の「廻向」は、私とあなたという自他の人間関係のことです。それもたんに上下の関係ではありません。教えてやるという態度では、知識的なものでも相手はついて来ません。まして人間であることの人格はなおさらでしょう。相手を育てることによって、相手から自分が育てられる、自利利他の菩薩行とはこのことです。<中略>こうして智慧と徳を、一生かけて身につけ、人間としての花を咲かせてゆくのです。これを加行位といっています。
<中略>
 四十一段からが不退転の菩薩です。この位を「地」といっていますが、それは生活の大地に足がつくだけでなく、自己の立っている大地、菩提心そのものを根源から支えている浄土が自覚され、浄土そのものが信・解・行・廻向の菩提心となって、自己を現わし証明していたことに眼ざめた位をいうのです。今まで理想として彼方に、背伸びをして求めていたものは、すべて自らの魂の根源にあって、自らを動かしていた根源的主体であったことをさとるからです。<中略>これを見道位といっていますが、それは人生の真実が解ったからです。
 この初地から五十一段までを十地といっていますが、その修行は「さとった後の修行」です。「信は道の元、功徳の母」といわれて、日々出会う人毎、出会う一つ一つの事件を縁として、内に宿っている無限の功徳を、外に花と開かすことです。桜が桜の花を咲かし、すみれがすみれの花を咲かすように、私が私の血の中に宿っている、命の花を咲かす道行きを明らかにしたもので、これを修道位といっています。その花が咲き、実となった人のことを、「仏」といって、これを究竟位としているのですが、私は仏とは、人間が人間としての本当のおとなとなることだと思っています。
<中略>
 しかし、この大乗仏教が理想とした人間像を、まだ不完全なものである。それは人生観の認識不足からくる誤りである、という仏弟子が現われて来ました。その人たちによって説かれた経典が、私たちが育てられてきた浄土の三部経です。
<中略>
その足らん所を補い、仏教の伝統精神を身につけて、生まな歴史現実に立って、それらの原始仏教、大乗仏教を根本的に見直し、批判し分析して、さらにそれを再構成して生まれたものが、浄土の三部経であり、特に『大無量寿経』であります。そこに説かれている「四十八願」は、大乗仏教が理想とした五十二段の仏を踏まえて、さらにそれを浄土教の立場で、人間の理想像と、その生きる道を、具体的に明らかにしたものです。

(五十二段の仏 より)


藤田徹文 著/永田文昌堂 『人となれ 佛となれ』 より

 皆さまといっしょに、「如来の願い」について学ばせて頂きたいと思います。
 申すまでもなく「如来の願い」とは、親鸞聖人が、真実の教えであるといわれます「大無量寿経」にあかされた四十八の願であります。この四十八の願を一願ずつ味わわせて頂こうと思っておりますが、その前に、「如来の願い」が、また仏教が、私たちの人生にどういう意味をもつかを考えておきたいと思います。
<中略>
 釈尊は、人間に生れることの難しさを、何度も何度も、いろんな譬[たとえ]をもって話されます。そこには、せっかくの生命なんだから、この人生を大切にしてくださいという願いがこめられています。もうすでに何度も繰返しましたが、仏教では、「死」ということをよくいいます。これも「生命ある今を、本当に大切にしてください」という願いをこめていわれるのです。
 では「私は、この人生をどう生きたらよい」のでしょうか。
<中略>
 親鸞聖人も、「どう生きたらよいか」という問いに対して、いろいろな答え方をしておられますが、私は「必ず最勝の直道に帰せ」といわれるお言葉が、最も端的なお答えであると味わわさせて頂いております。

(前章 より)


一体、釈尊は何を「確かなよりどころ」といわれたのでしょうか。
 それは釈尊最晩年のことであります。病の床にある釈尊に、「もしあなたがおなくなりになられたら、あとに残る私たちは一体誰をたよりに、何をよりどころとして生きればいいのでしょうか」と、涙ながらにたずねた一人の弟子がありました。
 釈尊は、この問いに、

汝自らを灯明とし自らを依り処として、他人を依処とせず。
法を灯明とし法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。

と答えられました。
 この自灯明、法灯明の教えは、三十五歳でおさとりを開かれた釈尊の四十五年間の伝道の結論であります。
 自灯明とは、自分の人生、自分の足でたちなさいということであります。いくらまわりに、自分にとって都合のいい、大きな強い足があっても、他人の足は、あくまで他人の足です。最後まで、自分の人生をささえてはくれません。たとえ、小さい弱い足でありましても、自分の足でたたなければ、自分の人生にはならないと教えてくださるのです。
 では自分の足で、どこにたてばいいのでしょう。それに答えてくださるのが、法灯明の教えであります。すなわち、どんなことがあっても滅することのない常住なる法の上に自分の足でたちなさいと教えてくださるのです。
 法の上に自分の足でたつとき、人生は本当に自分の人生となり、生命のありだけを燃やして生きる人生が開けるのです。

(確かなよりどころ より)


阿弥陀如来は、四十八の願いにおいて、どのようなことを誓われたのでしょうか。中国の浄影という人は、四十八の願いを、
(一)私たちが親になるとき、どういう親になるべきかを考えるように、如来は、どういう如来になるべきかを考え誓ってくださった願(摂法身の願)と、
(二)私たちが子どものためにどういう家庭を築くべきかを考えるように、如来は、私たちのためにどいう世界(浄土)を建立すべきかを考え誓ってくださった願(摂浄土の願)と、
(三)私たちがどうすれば子どもが本当に幸福になるかを考えるように、如来は、私たちの真の幸福と、その実現の道を考え誓ってくださった願(摂衆生の願)に分類して味わわれています。
 この分類は何でもないようですが、非常に大切なことを教えてくださっています。
 現代は、子捨て、親捨ての時代であり、父親はかげろうのような小動物になり、母親は教育ママゴンと怪獣あつかいされる時代であります。また、これほど子どもの非行や自殺が問題となった時代もありません。これら一連の問題を考えますとき、それらを時代のせいにしたり、子ども自身の問題にすることは簡単なようですが、どうしても見おとせないのは「親の問題」であります。
<中略>
 することもせずに、親だ親だでは、子に捨てられたり、怪獣あつかいされるのは当然のことでしょう。また、子ども自身も、非行や自殺にはしるのは当たり前でしょう。
 何か教育論のようになってしまいましたが、「如来の願い」は、あくまで生命のありだけを燃やし生きる人生のささえであり、根元であります。しかし、私たちの身近な問題をも、このように教えてくださるのです。
 それでは、親鸞聖人は、この四十八の「如来の願い」をどのように味わわれたのでしょうか。
 親鸞聖人は、「然つに願海(本願)に就て真あり、仮あり」(教行信証・真仏土巻)といわれて、四十八の願いを、「真実の願」と「権仮(方便)の願」に分けられました。
 すなわち、真実の願として、第十一の願・第十二の願・第十三の願・第十七の願・第十八の願・第二十二の願をあげ、方便の願として、第十九の願・第二十の願をあげておられます。
 方便といいますと、すぐに「ウソも方便」という言葉を思いだし、「方便とはウソ」と単純に思い込んでおられるかも知れませんが、方便のもとの言葉は「ウパーヤ」といい、「近づく」・「到達する」という意味です。また曇鸞大師(七高僧の第三祖・中国魏の時代の高僧)は、「正直を方といい、己を外にするを便という」(浄土論註・下巻)といわれ、「方」とは智慧、「便」とは他を先とする慈悲であることを教えてくださいます。

(如来の願い より)


蜂屋賢喜代 著/法蔵館 『四十八願講話』 より

 『大経』に「光顔巍巍」という偈文がありまして、それを御本願をお立てになります総願といいます。四十八願を別願と申して、それを細かに別けて『三誓偈』(重誓偈)という偈文が終わりにあります。その三つを照らし合わして味わって行くとよいと思います。
 ところで願の手前にある文をちょっと申します。

仏、比丘につげたまはく、なんぢ、いまとくべし、よろしくしるべし。これときなり。一切大衆を発起悦可せしめよ。

話をして皆を悦ばせよ、とおっしゃると、

菩薩ききおはりて、この法を修行して、よて無量の大願を満足することをいたさん。

聞いておる菩薩方が皆それを御縁として、また外の菩薩も願をお発しになろうから、結構なことだ。だから自分の思っておることを皆言えとおっしゃるので、法蔵比丘は、

比丘、仏にまふさく、やや聴察をたれたまへ。わが所願のごとく、まさにつぶさにこれをとくべし。

と言って、練りに練った四十八の本願を述べていかれるのであります。  そのうち、第一願は国ということを申しておられるのですが、第二願から第十一願までは、それぞれ願文に「国中人天」とあります。つまり、その国の中の人々にかくかくの幸せにさせてやりたいということが願われているのです。従って、これだけが、ひとまとめになるのであります。


金子大榮 著/法蔵館 『四十八願講義』 より

 私自身の経験を申しますと、ずっと前のことでありますが、学生時代に、この『大無量寿経』を読んで四十八願にいたりましたとき、今申しましたようなことを少しく感じたことがあります。それは仏があるかないか、浄土というものがあるかないか、というような問題が非常に自分を悩ましまして、これがわからなければいったいどうなるであろうか、これがわからなければ信仰というものはどうなるのであろう、ということについて随分困らされた時代であります。
その自分に、今から考えればきわめて漠然とした感じでありますけれども、第一の願から第四十八の願まで静かに読んでいくと、ここにまことがある。まことということをわれわれはいうけれども、しかしそのまことというものをはっきりとわれわれの目の前に出し、われわれの耳に響くようにここへうち出されたものが四十八願である。もしこれがまことでないならば、いったいわれわれはどういうものをまことと呼んでよいであろうか、というように思ったことがあります。
その感じが京都へくるようになりましてから、つい四、五年前に学校で親鸞聖人の降誕会をしましたときにもう一遍出てきまして、まことということは四十八願から出発しなければならない。この四十八願は本願真実であって、本願そのものがすでに真実のものをもっている。しかしその本願をわれわれが真実と感じるのはどうしてであろうか。そのときに出てきましたのは、『教行信証』の「信の巻」に出てきます業障深重という感じであります。自分を反省して自分の弱さ愚かさ、、またこの業障の強さというものを深く感じながら、胸を開いてこの四十八願を読むというと、一願々々自分の胸に響いてくる。だから前後の経文はどうあっても、この四十八願そのものがまことであるということが、またそのときに出てきたのであります。
今夜はここでそれが三度私の胸に出てきたのであります。この四十八願は今申しましたように、法蔵菩薩が四十八願を建てられたのではない。法蔵菩薩が四十八願を建てられたと考えると、この法蔵菩薩があるかないかということを考えなければならない。そうではなくて、この四十八願を読んでいくときに、この四十八願は何であるか。あるいはまたもっと近く申せば、われわれが四十八願を読んで深く感銘する。その心そのものはいったい何ものであるか。つまり四十八願を離れて四十八願を建てた法蔵菩薩ということを、われわれは考えることはできない。また四十八願を離れて、その願を成就して阿弥陀如来となられたというその阿弥陀如来というものも、われわれは求めることはできない。この四十八願を皆さんとともに読んでいき、四十八願の言音を聞いていく間にそれだけの意味を諒解させていただかなければならないと思っているのであります。

(それ自体真実なる本願 より)


 始めの十一の本願をわれわれが読みますならば、その十一の中の順序はどういうふうになっているか。それは国中人天ということを心において、しだいしだいにその生活を高め、純化していきます。これは私があえていうのではなく、昔の人も随分注意しているのでありまして、四十八願を読むとはっきりそうなっています。第一の願は地獄・餓鬼・畜生がないように、そのつぎは生命終ってから三悪道へ帰らぬように、そのつぎはみな金色になるように、そのつぎは形に好醜がないように、宿命通を備えるように、だんだんいって最後に漏尽通即ち煩悩妄念が起こらぬようにと、自然に涅槃の証[さと]りを聞くようにと、一願は一願より高く、一願は一願より深く、だんだん国中人天に対しての仏の願いが、高められ純化されていくのであります。私は本願というものの性質がそこにあると思う。願いというものはちょうど金を練るがごとく、鉄を鎔かすがごとく、初め鉱であるのがだんだん練れてますます純になっていくというのが、本願というものの性質ではないでしょうか。

(国中人天の願、願の内面化 より)


 そういうふうにだんだん高められて必至滅度までいきましたときに、一転して「光明無量・寿命無量の願」というものが出てきたのであります。それより以後第二十一の願にいたるまでは、すべて一切衆生の方に向き直って、その理想の高みからまたふたたび摂化十方の方向に向かう。だからまず光かぎりなからん寿命かぎりなからん、光明無量・寿命無量という仏自身の大悲の本をあきらかにし、力の本をあきらかにして、そのつぎに「声聞無数の願」が出ている。そのつぎに何があるかというと「眷属長寿の願」である。国中人天がみな長生きをするようにという願であります。それから今度は国中人天に不善の名あらば正覚をとらじ、「離譏嫌名の願」であります。そのつぎが「諸仏称名の願」、私はこのように願を読んでいきますと、だんだん十方摂化していかれる順序が感じられる。
<中略>
 国中人天が褒められる資格をもって初めて諸仏に褒められる。ここに「諸仏称揚の願」が出てくるのであります。ここにおいて純粋に霊の上における準備が整ったのでありますから、いよいよ衆生の世界へすなわち現実の世界へきて、第十八、第十九、第二十という三願をもってどこまでも十方衆生を救っていかれる。そういう点からいきますと、仏のほんとうの要求は、「至心信楽して我が国に生れんと欲して乃至十念せよ」というところにあるのですけれども、定散自力の心がとれないものですから、第十九願で追いかけ、第二十願でもう一遍方向転換して真実の願心へ帰入せしめる。すなわち光明無量・寿命無量の本願から第十八、第十九、第二十の本願に進んでいく。それが十方摂化の本願、仏の心が現実の中に入っていかれる一つの願いであります。

(十方摂化の願 より)


 それからはさきほど申しましたように、無窮菩提についての願である。本願の智慧と慈悲とによって、無限無窮の道が展開されてくる。それが第二十一願の国中人天の三十二大人の相にはじまる。同じ国中人天でありますけれども、これは前の国中人天とちがうと思うのであります。前の中人天は対内的に出てきた国中人天であり、今の国中人天は十方摂化の上での国中人天である。菩薩とか衆生とかいうものも、みな前の人天とか衆生とかいうものと意味を異にして、みな仏の無窮菩提の上に現われてくるものである。だからその無窮菩提を一括して申しますと、親鸞聖人のおおせられる環相廻向である。すべて環相の徳である。ほんとうの仏の本願が、無限に人から人へ、菩薩から菩薩へと伝わっていくのが、あとの二十八願であります。

(無窮菩提の願 より)


真実というものはその願を練りに練って出てきた純なるものである。竜の眼である。四十八願の竜に対して、眼を点ずるものを真実の願というのである。だから「必至滅度の願」が真実であるというのは、第一の願を練りに練って出てきた願であるから真実の願であって、「必至滅度の願」のみならば真実とはいえない。第一の願があればこそ「必至滅度の願」が真実といわれ得るのである。そういう点がら申しますと、「必至滅度の願」、「光明無量・寿命無量の願」、第十八願が真実であるのは、四十八願の要所要所の眼にあたるところに、真実という名前をつけておいでになるのであります。だから親鸞聖人の真あり仮ありということは、こちらはまことの本願であちらは方便だから、あってもなくてもよいという意味ではなくして、真実の願は眼であって、その眼を開いてみれば、すべて真実の願、すべて大悲の願である。

(本願の真仮 より)

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