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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』11a

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 光明無量

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【11】仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。……

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上
【十一】 さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。
その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。……


 限りない智慧と徳

 阿弥陀仏(無量寿仏)とはどんな存在かと問われますと、<一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり>(『唯信鈔文意』2)、<すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり>(『御文章』二帖9)、<一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰る>(『弥陀経義』)と様々な領解が示され、近年においても「創造的世界の創造的根本主体」(参照:{宗教を考える100の質問:49)等と教えて頂いておりますが、大経に述べられている光寿無量を明らかにすることによってさらに詳細を讃ずることができるでしょう。そして讃ずることにより讃ぜられた如来の徳が能所不二となって我が身に回向され満ちることになるのです。この「光寿無量」の中で、まずは「光明無量」を明らかにすれば、無量寿仏の「はたらき」を知ることができます。今回はこの「光明無量・限りないはたらき」の総合的な面を見ることにしましょう。

 光明無量は、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」という光明無量の願が報い成就した果徳で、総合的には「威神光明」として表されています。

註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。

現代語版
さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。

<無量寿仏の威神光明>
 経典に「光明」や「光」と書かれてあるのは、仏・菩薩の「はたらき」(用き・働き)を意味します。仏や仏性の「はたらき」を「光明」で[たと]えるのです。仏の光明には大きく分けて二種あります。
 一つは「智慧」のはたらき、「智慧の光明」(自受用・心光)です。これは一般的な形としては、あみだくじの名の由来ともなった放射状の線で表現されています。一言で言えば、智慧とは覚ること。見ること、解ることです。智慧がなければ自分自身も相手も社会や歴史も解りません。まずは智慧のはたらきをもって人々の聞法心と求道心を見出し、穢土と浄土の歴史と、一切衆生が成道する道ゆきを覚るのです。この智慧は、準備としては永劫の時間が必要ですが、開く時は一瞬です。しかし智慧だけで仏と成ることはできません。
 もう一つは「徳」のはたらき、「身放の光明」(他受用・色光)です。これは仏身をつつむ舟形後光などで表現されています。先の智慧のはたらきを実際に発揮し、行動に移し、実績を積むことで徳が生まれます。「威神光明」の「威神」はこの仏の徳をあらわします。智慧を得ても徳が働かなければ人々から信頼されませんので、せっかくの智慧を生かすことができないのです。
 このことは、たとえば{諸仏称名の願}を見れば解るでしょう。称名念仏とは衆生が仏の名を褒め称えることなのですが、仏は自らの徳を名に込めますので、仏名を讃嘆することは仏の徳を褒めることになるのです。そして仏徳を褒め称えることがかなえば、褒めた仏の内容が私にふり向けられ、内容の無い私の内容と成ってはたらくのです。念仏する心を場所として浄土がはたらくのです。このように仏と衆生をつなぐものは徳なので、仏は智慧をもち真心を尽くして永劫に修行し、無量の徳を積むのです。
 以上のように光明無量・威神光明の果報を得れば、仏の智慧と徳が[あまね]く十方に至り尽くすことになるのですが、これが次に述べられている内容です。

<最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり>
 (無量寿仏の威神光明/徳と智慧のはたらき)が最尊第一であるということはどいうことでしょう。阿弥陀仏のはたらきや尊さは諸仏の中で第一位であり、第二位は○○仏≠ニいう順位や等級づけの意味で言うのではありません。比べるものがない、比べるものではない、という意味で最尊第一なのです。
 比べるのは相対の世界であり、比べることにより限界も生まれます。これが他方の世界や諸仏の世界です。実際、現在まであらゆる国や組織や人々は覇権を競い、敵対を繰り返し、互いに相手をなじり、押さえつけ屈服させようと争ってきました。これは宗教でさえ例外ではありません。信者獲得や宗教論争に現をぬかしてきた宗教者も多いのではないでしょうか。どの仏が最尊第一なのか≠ニ争うこと自体虚しい所業でしょう。諸仏と対比しない仏、対比する必要がない仏、という意味で無量寿仏は最尊第一なのです。
 さらに敵対は、他人や他組織に対してばかりではありません。自分に対して敵対することもあるのです。理想を求めるがゆえに、欠点を恐れ今の自分が受け入れられない。そのため生きる場を失い、悩み、時として生きることさえ拒絶してきました。また宿業や煩悩を憎んで消し去ろうと頑張り、命がけの修行に励むこともあるのですが、それは土台無理な話。修行に励む力そのものが宿業と密接に関わっているのですから、いずれ袋小路に入ってしまいます。
 しかし阿弥陀仏のはたらきは絶対であります。相対世界のように他と比べる必要がないので無対・無相なのです。この功徳が回施されるのですから、阿弥陀仏を念ずる行者は他に対して敵対しないし、自らにも敵対する必要がない。しかも諸仏の願いを成就することができる。こうした内容を、「諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり」、諸仏の光明は阿弥陀仏のはたらきに追いつかない、と褒め称えるのです。阿弥陀仏は諸仏に超え、世に超えているというのはこうした理由からです。

 親鸞聖人は、「摂取の心光は常に照護し給う」ということは、私ががけから落ちようと思うたのを助けるのでない。私が腹を立てて欲を起こしてむらむらとなると「おいおい」、月も照らさぬ日も照らさぬ心の暗がりを照らし、腹が立たないようにそれを守るのです。だから見なさいね。ちゃんと親鸞聖人はそうなっておるではありませんか。何かというと、いい悪い、損だ得だというそういう煩悩も「弥陀智願の広海に、凡夫善悪の心水に帰入しぬればすなはちに大悲心とぞ転ずなる」煩悩が慈悲心に転ずるのだから。腹が立たない。腹を立てることがばかくさいのでしょう。何でか。相手が加害者と思うから腹が立つ。相手が被害者になってみれば、かわいそうなもんでしょう。慈悲に変わるんです。「大悲心とぞ転ずる」私が慈悲心に変わるのです。相手の見方が違ってくるのだから。解りましょう。こっちは腹が立っておる。「おいおい、もっと大きな眼をしろ。もっと大きな眼をして見よ。大きな眼をしてみれば、相手が私に対して加害者に、相手が知らずにしておるのだから相手も気の毒な被害者。煩悩に踊らされておるのだから」こういうことをおっしゃいます。これは皆、心光ですよ。

仏説無量寿経講話(島田幸昭)より

 十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき

 前節で、無量寿仏の智慧と徳のはたらきは最尊第一であり、諸仏のはたらきの及ぶところではないことについて詳説しましたが、以下はその諸仏の及ばない姿が説かれます。

註釈版
あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。

現代語版
 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。

「あるいは仏光ありて」の「仏光」は何を指すのでしょう。これには二説あり、一つは「諸仏の劣った光明」、一つは「無量寿仏の光明」です。
「諸仏の劣った光明」とする説の論拠は、「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」・「東方恒沙の仏刹を照らす」、後には「七尺を照らし」等と限定があるので無量光仏の名徳と一致しない、というのです。この説は過去長く支持されてきたのですが、経典の流れや内容からいけば不自然で、この現代語訳のように「無量寿仏の光明」と釈す方が勝義でしょう。

 したがって、「無量寿仏の光明」が、まず「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」。無量寿仏のはたらきは無限であっても、はたらく場である現実は有限です。この有限の環境に閉じている私の因循姑息[いんじゅんこそく]な価値観を破ってゆくのが無量寿仏の超越のはたらきです。しかも一旦狭い価値観を破ったら、破いて得た広い価値観に落ち着くのではなく、さらにその広い価値観を破いて次々と世界を超越してゆく。これが<他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない>という無量寿仏の超越のはたらきの特徴です。
 しかし多くの宗教においては、一旦自己の世界が破られると、破られて得た境地に執着してしまい、教えの奴隷状態と化す人が絶えません。これを法執と呼ぶのですが、法執は我執以上に頑迷で危険な執着となります。

 無量寿仏の超越の光明は、有限の環境において有限のまま無限のはらたきを展開する光明なのです。決して無限の中に有限を埋没させてしまうはたらきではありません。もし無限の中に私が埋没してしまえば、私は生きる屍と化してしまうのですが、信者を精神的奴隷状態に置くため、あえて多くの宗教教団でこの思想を説く現状は実に嘆かわしい限りであります。
 無量寿仏は、百仏世界という限定された場に無限のはたらきを展開する。すると百仏世界が破れて千仏世界に無限のはたらきを展開する。さらに拡大すれば数百千億・百万もの仏国土を照らして無限に展開する。要約して言えば、東方恒沙の仏刹はじめ四方・八方・十方世界それぞれにおいて無限を展開する、これが無量寿仏の「超越のはたらき」の内容です。
 無量寿仏の超越のはたらきに遭遇すれば、最初に持っていた私の小さい価値観は打ち砕かれ、新たな価値観を得ることができるのですが、如来はそうして得た境地や領解に執着する暇を与えず次々と打ち砕いてゆき、日々新たな超越の浄業を限りなく展開してみせるのです。

 ではこの超越の光明は、具体的に私にどのようにはたらくのでしょう。
 たとえば、ある集団の中で何か不祥事[ふしょうじ]が起こったとします。もちろん不祥事まではいかなくとも現実にはつねに何か問題が起こってきます。ところが、その集団内の論理や価値観だけでは解決できない問題となっているにも関わらず、過去の因習にこだわって解決しようとしたため全く問題が解決できない、といったことが現実にはよくあるでしょう。
 こうした事態に陥った時、大体三つの選択肢が用意されています。

 一つ目は、事態がいくら悪化しても過去の古い習慣に執われ、一時しのぎの姑息なやり方を人々に押し付けてゆく≠ニいう選択肢で、これでは問題が全く解決されず、結局人間の側が次々に犠牲となってしまいます。そしてこうした場合は特に弱者にしわ寄せが押し付けられてしまうのですが、古今東西、人類はほぼこの選択肢を選んできてしまった、と言えるでしょう。このため今現在のような五濁悪世が形成されてしまったのです。

 二つ目は、自分たちの価値観では問題解決できないのだから、全てを何らかの超越的存在に委ねてゆく、そして自分たちはその超越的存在に従ってゆく≠ニいう方法です。自分たちとは別次元の無限・絶対的な価値観を信仰してゆくわけで、これは神がかり宗教や啓示宗教などもこの範疇に入るでしょう。こうした宗教の場合、どうしても人間と超越的存在との間に特別な存在が必要となってきます。また、一度与えられた無限・絶対的な価値観はどんなことがあっても崩すことはできませんので、宗教対立が起こった時は双方が悲惨な状態になってしまいます。

 三つ目は、自分たちの有限・相対的な価値観を「有限・相対的な価値観である」とそのまま見抜いてゆく&法です。与えられた無限・絶対的な価値観を頑なに信仰するのではなく、今ある論理や価値観は絶対的なものではなく相対的なものだから、解決できない問題が起こった時は新たな道行きを模索して解決しましょう≠ニいう姿勢を取るのです。しかも小手先の方策で解決するのではなく、むしろ自分の生き方や価値観の頑迷な殻を破ること≠フ方が問題の解決そのものより重要となってきます。
「これだ!」と感激してつかんだ価値観は、どんな素晴らしい価値観でも執着があります。仏教ではこれを法執といって誡めているのです。そうではなく、有限・相対的な場所に立ったまま、これをそのまま有限・相対的な場所≠ニ認める、これが「十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき」なのです。
 このような無量寿仏の超越のはたらきに出遇った人々は、問題が起これば起こっただけ因循姑息[いんじゅんこそく]な価値観が破られていきます。こうしたありさまが「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」という内容で、こうした姿勢があらゆる世界に波及することを「東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし」と説いているのでしょう。

 拡大して照らす内在のはらたき

註釈版
あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。

現代語版
その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。

<あるいは仏光ありて>
 再度「仏光ありて」とあります。これはもちろん「無量寿仏の光明(はたらき)」ですが、厳密に言えばこちらの仏光は、無量寿仏と身土不二の関係である浄土(安楽国)のはたらきを主として述べています。つまり「浄土の光明」。そして今度照らすのは、まず「七尺」。やがて「しだいにその範囲を広げて」いくのですが、最後は「一仏刹土を照らす」で終わりです。先の「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」や「(十方の)恒沙の仏刹を照らす」という表現からすると随分規模が小さくなってしまいました。

 これはどういうことかと言いますと、千仏世界・十方恒沙の仏刹を照らすということが即ち、自らの世界(一国土)の成就の証しということなのです。超越のはたらきを向こう側に見て拝んでいた無量寿仏がいつの間にか私に成り切っておられる、ということを言います。先の「十方恒沙の仏刹を照らす」ということが「超越」ならば、「一仏刹土を照らす」は「内在」ということです。
 ここで言う内在とはどういうことかというと、たとえば私が他人の相談にのったり、社会に役立つことをする、国家や世界全体に貢献するとします。しかしそうした奉仕が奉仕だけで終わってしまえば、肝心な自分自身の人生が痩せてしまい、私の願いは本当には成就しません。「誰かのために生きる」、「何かのために生きる」と言えば美しく聞こえますが、肝心の自分が抜けては自分自身が生きる意味は見出せません。私は機械やロボットではないのです。
「人間は一生を通して誰になるのでもない。自分になるのだ」と仲野良俊師も仰られるように、「無量寿仏の光明」は「超越の徳」により諸仏世界を無限に照らすとともに、「内在の徳」により、足元に戻ってさあ自分自身はどう生きるのか=A自分自身の国(世界)をどう輝かせるのか≠ニいう課題に真摯に向き合うよう勧めるのです。どこまで世界が拡大しても、私自身の問題から離れてはいません。
 このことは、たとえば『讃仏偈』にも――

たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、
一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
とある通り、諸仏供養以上に自らの道を求めることの重要性が説かれています。

<七尺を照らし>
 七尺は人間の背の高さを現わします。日本の尺度で七尺は高すぎますが単位が違うのでしょう。ちなみに左右に広げた両手先の距離を一[ひろ]と言いますが、この「一尋の光」と訳す場合もあります。
 では「七尺を照らす光明」とは具体的に何を指すかと言うと、「私」が一個人としてどう生きるか≠ニいう問題を、私に成り切った阿弥陀仏とともに模索し行動してゆくはたらきを言います。
 どんな大きな事業を為さんとするときでも、まずは私個人の生き方が問われてくるのです。足元を固めないまま突き進んだため手痛い失敗をする、という事例は枚挙にいとまがありません。まず自分の足元をしっかり固めること。これが念仏が私の身に満ちるということであり、この身に満ちた念仏の功徳によって生活するということです。これが「七尺を照らし」という意味です。

<あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす>
 私個人の問題は個人で留まっているわけではありません。人間は社会生活を営んでおりますので、個人の問題が社会環境に波及するのです。たとえば、荒れた心を落ち着かせる≠ニいうことは、最初は自分の身の丈の問題でありますが、やがてこれが家庭という場においての問題となり、やがて社会や国家や世界全体を踏まえた問題に波及してゆくのです。さらに言えば、社会に波及する問題として個人の問題を解決しなければ、個人の問題も本当に解決したことにはなりません。

 これを「立場」という視点で言えば―― 同じ問題が起こっていても一個人としてこの問題をどう見るか、どう解決するか≠ニ考えるのと、親の立場として考える、校長の立場で考える、市長や県知事の立場で考える、首相の立場で考える、というのとは内容が異なることでも解るでしょう。
 親の立場に立てば家庭に対して責任がありますから、一個人の問題も家族の同意や協力の上で家庭教育的な解決をめざします。これが立場が大きくなれば教育環境全体の問題として解決をめざす必要が生じますし、またそうでなければ立場が生かされません。広く責任を負っている立場の人間が自分の保身ばかり考えていては、親の立場は我執の汚泥に没し、責任ある立場も穢されてしまいます。
 無量寿仏は無量寿仏国の国王で一切衆生の王≠ニしての立場に立っていますから、単に「一仏刹土を照らす」だけでも良さそうですが、この大きな立場からふり向けられるはたらきは、衆生にとっては、小さな立場から順に大きな立場に拡大するので「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」と説かれるのでしょう。

 無量寿仏の内在のはたらきについて言えば、念仏が私の身に満ちる。身に満ちた念仏の功徳によって生活する。すると当然、念仏によって自分の身の丈が照らされてきます。やがてそれが家庭環境を照らし、「親としてこんな態度で良いのか?」等と知らしめられる。そして次第に拡大して、「責任者としてこんな態度で良いのか?」「念仏者としてこんな性根の無い生き方で良いのか?」と背後から声がかかるようになります。この声こそ、我が身に満ちた念仏の声です。信心は個人の問題としてとらえられがちですがそれは第一段階で、やがて社会性をおびた問題として自らの生き方が問われてきます。これが「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」という内容でしょう。家庭や社会生活の中で念仏の功徳が発揮されなければ、その念仏はまだ利己の限界に閉じた念仏に過ぎません。念仏は実際の歴史的環境の中で練り上げられた功徳ですから、当然、私が当面する環境においてこそ無限にはたらきを展開しなければ嘘でしょう。こうしたはたらきにより自力の殻が破かれてゆくのです。
「由旬」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はというと、約11.2km、約14.4km、約21km、約28kmなど諸説あります。いずれにしろ、自分の生き方全体が念仏になってゆくということが、そのまま家庭や地域や国や世界全体を照らすことになる。逆に言えば、家庭や地域を照らさぬような念仏は、真に回向された念仏とは言えないのです。自分勝手に解釈し早合点した自力の念仏にはこうした広がりはありません。

 では具体的にどのように照らすのかと言いますと、私の身に満ちた念仏は私の身の丈にありながら私の身の丈を破り家庭に及びます。さらに家庭に満ちた念仏は家庭内に留まらず地域や国家に及びます。そして地域や国家に満ちた念仏はその殻を破り世界全体に波及します。そして世界全体に念仏が満ちれば、心の壁や民族や境遇や思想信条の壁を破ってゆくのです。無量寿仏の内在のはたらきは、無我となってそれぞれの殻を破る。しかも同時に、私は私であり、家庭人であり、地域や国に育まれた人間であることを証明してゆくのです。これが「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」の内容でしょう。それぞれの立場を超えながらそれぞれの立場を照らしてゆく、これが無量寿仏の内在のはたらきです。

 しかし諸仏のはたらきはそうではありません。それぞれの立場に閉じて広がりが持てなかったり、逆に拡大するあまり各自の場が崩壊してしまったりします。たとえば宗教活動に熱心なあまり家庭が崩壊したり、自らの国や民族を滅亡させてしまったり、世界全体の問題に取り組むあまり身近な問題に無関心になったりします。大事の中の小事無し≠ニばかり捨てられた地域や人間は数多いますが、粗雑で傲慢な仕打ちは深くして拭いがたい恨みを生むものです。
 無量寿仏の光明が「七尺を照らし」から段々に広がるのは、こうした一々の課題を無視しない≠ニいう意味を含んでいるのでしょう。
 すると、「あの人は、言ってることは立派だが、言ってる本人はどうなのか。言ってることが身についていないではないか」と批判される私の有様が、「七尺を照らす光明」によって私の身と一致してくる。「あの人は仕事や社会活動では活躍しているようだが、家庭は崩壊しているではないか。周辺住民とのトラブルも絶えないではないか」と批判されていた人の有様が、「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす光明」によって変革され、地に足の着いた活動が展開されていきます。どんな大きな活躍も、大きさに関わらず、それは自分自身の内容の展開に過ぎません。そうであるならば逆に、自身の内容が希薄なままどんなに事業を拡大しても元の空虚な内容が充足するわけではない、ということも言えるでしょう。実際そうした空虚で巨大な活動が世界を覆いつつある≠ニいうことが現代社会の諸問題の根にあるのではないでしょうか。

<かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす>
「かくのごとくうたた倍して」は、先の七尺から段階を経て広がる無量寿仏のはたらきですが、「乃至、一仏刹土を照らす」が問題となります。
 乃至[ないし]は、上下の限界を示して中間を略す語≠ナすから、七尺から始まって五由旬〜「乃至」〜一仏刹土、を照らすということです。七尺から段階を経て広がるはたらき、これは解りましたが、一仏刹土が限界であるというのはどういう意味でしょう。
 これは、無量寿仏のはたらきによってどこまでも世界が拡大していったとしても、みな私に内在する世界が展開したものであることを言うのです。無量寿仏は私に成りきって、成り切った私を通して功徳が拡大してゆくのです。ですからこれは一個人がしたのではない。しかし、一個人の念仏を通じてのみ無量寿仏ははたらきを示せるのです。

 ちなみに、「超越と内在」については、多くの哲学・思想によっても論じられていますが、一々との比較は煩雑になりますのでここでは省略したいと思います。

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