ご本願を味わう

『仏説無量寿経』3a

【浄土真宗の教え】

巻上 序分 発起序

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【三】 そのときに世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍巍とまします。尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍巍とましますこと、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。やや、しかなり。大聖、われ心に念言すらく、今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なにがゆゑぞ、威神光々たることいまし、しかるや」と。

 『浄土三部経(現代語版』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【三】そのとき釈尊は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられた。そこで阿難は釈尊のお心を受けて座から立ち、衣の右肩を脱いで地にひざまずき、うやうやしく合掌して釈尊にお尋ねした。
「世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。わたしは今日までこのような尊いお姿を見たてまつったことがございません。そうです、世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、特にすぐれた禅定に入っておいでになります。また、煩悩を絶ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」


 【大無量寿経点睛】(島田幸昭著『八葉通信』第10号) より

【大無量寿経点睛】
仏仏相念の世界
経意
【尓の時】(編者註:【爾の時】) 昔はその時とは、時は一時[あるとき]、所は霊鷲山、説く人は仏、聴衆は大比丘と菩薩、それらが整うたことといっているが、それは写真でも撮れる道具建てが整ったことで、それなら「其の時」です。「尓時」はしかる時で、その場の雰囲気を言っているのです。常随の阿難が今まで見たこともない、今初めてと驚いた、釈迦の神々しい姿が何故であろうか、その由って来る原因を抑えて尓の時といったのです。そのことは次の「世尊」にも現われている。序文には「一時仏」といっているのを、何故ここで世尊といったのか。仏は三人称で第三者が何ら感情を交えずに、覚った人を指す語ですが、世尊は二人称の敬語です。その秘密が序文の中に隠れているのです。それは覚った法だけでなく、聴衆への信からの喜びです。

【釈迦の信】 『大経』以前の経では、原始仏教の『阿含経』でも、大乗仏教の『華厳経』でも、説法の始まる前に「三止三請」といって、会場が整ったので案内すると、釈迦は会場へ出て見て、黙ってそのまま帰られた。三度び請うて三度び止められた。それは聴衆の中に今日の話をよう聞かぬ者があると見られたからです。また『法華経』では、聴衆の中に程度が低く、たとい火の中をかき分けてでも聞かずにおれぬという真剣さがないからと、道は遠いのを道は近いと方便に嘘を言っているのは、皆聴衆を疑っているからです。
『大経』の釈迦は、表はどうあれ、全ての人に悉く仏性があり、永い地上生活を通して真実を求めて来た先祖の精神的遺産を承けて、この事一つに腹一ぱい説けるぞという信が全身に表れているのです。それを序文に一万二千の聴衆を「一切は大聖にして神通すでに達せり」と説いたのです。

【説聴一如の経】 これは『大経』だけではなく、浄土の三経は皆仏仏相念の法です。昔は『阿弥陀経』は舎利弗よ、舎利弗よと三十六遍呼ばれたが、説法が解らぬので、呆れて聞いたといっていましたが、これは間違いで、舎利弗は解ったから唯だ頷いて聞いていたのです。それで序文に聴衆は「皆、大アラカンである」といっているのです。
 また『観経』でも、釈迦がイダイケ夫人に対して「汝今知不」とっているのを、お東では「汝今知れりやいなや」と訓み、お西では「汝今知るやいなや」と訓んでいるが、どちらも「お前には今解るまいがや」と解釈して、だから教えてやると、釈迦の態度を高飛車に説いているのですが、これは全く経の意を読み違えているのです。金子先生も「あなたにも今は解るでしょう」と解釈して、イダイケも「解ります、解ります」と頷いて聞いたといっておられます。

【師と弟子との感応】 釈迦の気高い姿を見た従者の阿難が姿勢を正して、見たままを「今日世尊は目鼻は悦びに満ち溢れ、肌の色は清らかで、お顔は気高く光り輝いています。これは磨かれた鏡が姿を映すように、心のさとりが姿に映っているのでしょう。私が心に言うてみますのに」といって、今日世尊、今日世雄、と五遍徳を称えて、「過去未来現在の三世の仏は、仏と仏と互いに念じ合うておられます。今のあなたも諸仏を念じておられぬ筈はありません。何が故にこのようにお徳が気高く光り輝いておられるのでしょうか」と問うています。
 これはこの阿難の問いと次の釈迦の答えによって、著者のさとりの内容を明らかにしようとしているのですが、前にも述べましたように、これは歴史上に曽てあった事実をいっているのではありません。ヘルマン・ヘッセがその著『シッダルタ』に、一釈迦の人格を反抗精神と随順精神の二つに分けて、反抗精神を擬人化してシッダルタと名づけ、随順精神をゴービンダと名づけて、仏教とはどういうものかを説くために、小説として創作しているのと同じ手法です。『大経』では「我」と名告る著者が自分の覚りを説くために、師と弟子との問答という形で明らかにしようとしているのです。

【五つの徳相】 阿難が釈迦の気高い姿を見て、心に感じたままを念言して、今日世尊、今日世雄と五度び言葉として表現したのですが、ここにいる一万二千の聴衆には感じとしては、今日の釈迦の姿が気高いことは解っていたのでしょうが、お徳の内容が言葉にはならなかったのでしょう。したがって阿難が言えば聴衆は皆、その通りその通りと、自分の自覚になったに違いない。金子先生が「世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」といっているが、今の釈迦と阿難の関係も同じことです。まさに時機純熟です。良寛は「花無心にして蝶を招く、蝶無心にして花を尋ぬ。花開く時蝶来たるか、蝶来たる時花開くか。我亦知らず人亦知らず、知らずして帝の則に順う」と嘆じています。
 「今日」は生れて初めてという阿難の感動であり開眼でしょう。 「世尊」はこの世の尊い宝という釈迦に捧げた尊称です。 「奇特の法」は珍しい特別な法を覚っておられるということか。 「世雄」は姿が勇ましく男らしいこと。 「仏の住する所」は菩提の座ですが、それは座りこんでいる座ではなく、獅子の座に乗っている求道の相でしょう。 「世眼」は世間の眼で、人生行路の難局を切り拓く智慧者の相。 「導師の行」はたんに仏になる道だけでなく、「三界の大導師」ですから、人生に悩んでいる「時の人」を問題の解決に導くことでしょう。 「世英」はこの世の英雄で、誰よりも勝れて秀でている相。 「最勝の道」は仏道の無上道であると共に、どんな教えよりも勝れていること。 「天尊」は尊さがこの世の人でないこと。初めは世尊と思ったのが徳を讃めている中に阿難の眼が高まって、遂に天尊と仰がれるようになったのです。 「如来の行を行じたもう」、前の四徳は全て「住」であったのに、天尊だけが「行」になっています。住は身に具わった徳でしょうが、「内にあるを徳といい、外に施すを行という」、行は徳が形をとって外に現われることです。

【五徳と大寂定】 この五徳を異訳の『如来会』には大寂定といい、また『真宗新辞典』には大寂定弥陀三昧といって、それを「大涅槃の根元である弥陀三昧」と解釈してあるが、五徳と大寂定は別であり、また大寂定の根本が弥陀三昧ではない。これは真実のさとりは涅槃とか法性真如という腹と、法相宗のさとりの方法である。煩悩を断ち無明を払い除いてゆく「五重唯識」と同じであるという誤った先入観念からの発想に違いありません。五徳は阿難が言っているように、修行によって成就した人格であり、弥陀三昧は三世の諸仏の仏仏相念の世界です。
 涅槃とか法性真如は自然の世界で、法身ですが、五徳とか弥陀三昧は、色も形もない法性真如が自ら色を取り形を取って現実に具体化するために、願いを発こし行を修して成就した、本願成就の報身であり報土である行為的世界です。同じく真実といっても、法身の真実と報身の真実は違います。たとえば子どもの真心は天真爛漫で無邪気です。大人の真心は生活経験によって造られたものです。経には本来の自然の真心のことを清浄心といい、生活を通して徳となった真心を荘厳心といっています。漢字ではこれを区別して、淳心と真実心といい、親鸞は至心は「真実誠種の心」といい、信楽は「真実誠満の心」といい、信楽は「真実誠の満足した心」といっています。

【仏仏相念】 念仏は法然や『歎異抄』では、文字の上では罪の深い凡夫が仏を念ずることになっていますが、いわれに適うた念仏は凡夫にはできません。才市同行は「ナムの仏がアミダの仏に拝まれて、アミダの仏がナムの仏に拝まれて、これが機法一体のナムアミダ仏」。また「ナムの二字もナムアミダ仏、アミダの四文字もナムアミダ仏、ナムの仏が私で、アミダの仏が親さまで、これが機法一体のナムアミダ仏」といっています。
しかし『大経』では過去未来現在の三世の仏と仏が拝み合うことであり、『観無量寿経』には「諸仏の前に生まれる」ことです。龍樹はこれを般舟三昧といって、「諸仏が眼の前に現れる」ことといっています。三世の諸仏とは、過去の仏は先祖に宿った仏、未来の仏は子孫に宿った仏、現在の仏は今生きている私とあなた、嫁と姑に宿った仏のことです。念仏はそれが見えることです。
 仏仏相念の世界はたんに心と心の触れ合いという心の世界ではなく、浄土そのものです。『華厳経』では浄土は諸仏が集まった世界といっています。これは第三者が見た世界で、写真に撮った光景です。何のために集まったのか。これでは行為的世界は解りません。このことは釈迦の誕生でも、『華厳』では「唯我独尊」といっていて、動きがありません。これは覚りの一念です。『大経』では「我無上尊とならん」と意志的に願いとして現しています。浄土も仏仏相念と行為的世界として説いている。これは主客一如の境地で、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、蝉の声が静かなのか芭蕉の心が静かなのか、叙景詩のままが叙情詩です。「古池や蛙飛びこむ水の音」も、深山の古池も唯見ただけではそれだけですが、蛙が飛びこむ水の音によって静けさが破れる。それによって何と静かだなあと、静けさが自覚になる。これと同じです。

【諸仏と衆生の数】 仏とか菩薩と聞けば、私たちとは違った雲の上の人と思いなされていますが、皆私たちを行為的世界でいっているのです。『華厳経』では諸仏と衆生は同じ数といっています。皆さんに身近いことでいいますと、奈良の大仏です。これは『華厳経』の姉妹経の『梵網経』によって、国家の理想像を形に表わしているのですが、大仏の名はビルシャナ仏で、千の光明を放つ、一一の光明に大釈迦がおって、一一の大釈迦が百億の光明を放つ、その一一の光明に小釈迦がおる。その小釈迦が一人ひとりの衆生に宿るというのです。百億に千を掛けると十万億です。浄土の三経に十万億の仏とか、十万億の衆生世界とは皆ここから来ているのです。

 『三経要義』本願寺出版社/中央仏教学院 より

 証信序に次いで発起序が説かれてある。発起序とは正しく大経の説かれた特殊の因縁を示すもので、「爾時世尊」より「願楽欲聞」までをいうのである。然らば大経はいかなる特殊の因縁があって説かれたかといえば、証信序において示されたごとく、耆闍崛山の会座全く整うや、釈尊はその身に五徳の瑞相を現ぜられた。五徳の瑞相とは 1 住奇特法 2 住仏所住 3 住導師行 4 住最勝道 5 行如来徳の五相であって、その意を表示すれば次の通りである。

大経五徳
住奇特法――身の上に現たる奇特の相――身徳(入大寂定)
住仏所住――仏の住したもう証りの徳――心徳(入大寂定)
住導師行――衆生を導き涅槃に入らしむる徳行――利他(別・行如来行)
住最勝道――最も勝れたる智慧の道―――――――自利(別・行如来行)
行如来徳――二利円満の如来の徳――――――二利円満(総・行如来行)
(編集註:「入大寂定」と「行如来行」を合わせ「如来会二徳」となる、と説明してあるが・・・)

 このような瑞相を未だ釈尊は現ぜられたことがなかったので、聴衆の一人えある阿難は怪しみて釈尊にその理由を問い奉った。

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