島田幸昭
古今東西の名言
本派布教師 【浄土の風だより】
真実の宗教は、求道の動機が純粋でなければならぬ
今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです。
人間が環境を作り変えると同時に、環境によって人間が作られる。同時に今度は、自分が自分を作り変えることができる。その道が仏教で、覚った人である。
本願とは本当の人間になりたいという願いのことです。
浄土に生まれたいと願う中に浄土がある
泣いても泣き切れぬ悲しい宿業の中に、美しい蓮華蔵荘厳世界が宿っている。
お釈迦さまはどんな人をも拝んでおられたから、どんな人からも拝まれたのです。仏仏相念の念仏とはそういう世界です。
話合いさえすりゃ、世界は変わってくるじゃありませんか。相手疑うとるから、相手を疑う自分は鬼になるんや。
お釈迦さまの菩提樹はピッパラ樹であり、さとりの座は、妻を捨て子を捨てて坐った、山の中の石の上ですが、私たちのさとりの座は、逃げようにも逃げられぬ、家庭や社会の、自己の置かれている宿業の真っ只中です。
形あるものは迷いで、形のない世界が本当だと思う。そうではないのです。本当のものは、形のある中に宿っておるのです
如来の家に生まれるとは、生きる根拠を持つことであり、喜んで死ねる願いが見つかることである。それは同時に真実の自己の誕生であり、自己の世界の発見である。
自分は信を得たと思っていても、それが間違ったものであったり、また不徹底なものであったりすることがある。それを真実の信でないと知らせるものが二つある。一つには先哲の教え、二つには自分の置かれている日常生活の場においての、自己の言行そのものである。
新しい自己を創造し、新しい歴史を創造していく。人生創造の行者のことを正定聚不退転の菩薩いう。
相手を尊敬すれば、また相手から尊敬される。相手を理解することによって、自己が成長し、自分の世界が広くなります。
その人がりっぱであるかどうかを証明するのは誰か。それはその人の生活が無碍になる。周囲の人が喜んで順うてくれることです。
りっぱな人間になりたいという願いの中には、無意識ではあっても、即自的に自分を信じているのです。自分はだめだと思ったら、願いは発こって見ようがないでしょう。その信心のことを菩提心といい、この心の発った人を菩薩というのです。
頭が下がったその眼で、向こうを見れば、十劫の昔から仏は自分に宿っていたと同じように、どの人の上にも、拝まずにおれぬ尊い仏が見えてくる。そこを『観無量寿経』には「無量寿仏を見るものは、十方の諸仏を見る」と説かれています。
自己が誕生して、我ありと自覚したとたんに、自己に背くものが見える。それは我なしという悲しみです。その悲しみの涙の底から、我とならんと、本来の自己が起ち上がる。その心を仏性とも菩提心ともいうのです。菩提心の外に自己はありません。
自分の体、厄介であるけれども無かったら困るがね。もっと厄介なものは心じゃないか。自分の根性ほど厄介ものはありませんよ。けども自分の心ほど貴いものはない。貴いもので厄介な、厄介なもので貴いの。
どこかに諸仏の国があるのではない。あるものはわれわれ衆生の世界だけです。一人ひとりの衆生の上に、仏を見出だし、一人ひとりの世界を理解することです。
本当に今、人生を、世界を救うものは、鉄砲じゃありません、原子爆弾じゃあありませんよ。真心、真心が人間から生まれてこなければ。
我執が破れても法執が残る。法執までも破った人が親鸞聖人。
大無量寿経は、我々迷うたものを外から見て名付けるんじゃない。覚りの世界を表すんじゃない。覚りの世界自体が、わしはこういうもんじゃ、わしはこういうもんじゃと、人をして言わしめる。釈迦をして言わしめたもの。
説かれておるお経は、自分が受け取って、自分の血となり肉となったものを吐き出さにゃあいけんの。経ってそういうもの。そうでないと命がないの。
私は仏性とか如来とか、本願とか浄土といわれるものは、魂の地下水だと思っています。地下水は地球のどこにも行き渡っていますが、そのままでは自分のものになりません。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の」四十八願の願いを開発する作業が、聞法であり求道です。
仏教でいう信は、神の宗教にいうような「解らないから信ずる」という不可知や不可解の上の信のことではない。現前のあるがままが見えることであり、あらゆるものの本当の値打ちが解って、それを尊ぶことができるようになることである
仏教では煩悩のことを、垢とか毒といっていますが、これはくせのことです。どんなに垢にまみれていても、私は垢ではありません。くせはくせ、私は私です。愚かな自分を悲しみ、浅ましい自分に泣いている、その悲しみ泣いている、それが本当の自分です。
学問は正しく生きるためのもので、正しい人生観の確立をめざしているのです。正しい人生観は、生きてゆくための大切な基礎工事です。
南無は、一人ひとりの上に働く仏であり、阿弥陀仏は、一切衆生全体を包んでいる仏のことです。南無の仏は、阿弥陀の仏によって支えられ生かされ、阿弥陀の仏は、南無の仏となって初めて、その徳を現実に現わすことができるのです。
光明無量、寿命無量の仏の徳は、唯だ、念仏の衆生の上に現われるのです。裏からいえば、念仏の衆生を通してだけ、仏の徳は知られるのです。
言葉が生きて相手に通じるか、死んで撥ね返されるかは、第一に言葉以前に、自分の姿が相手にどう映っているかによって決まるのです。
仏に向かえば「御恩報謝」と言っていたものが、衆生に向かえば、忽ち「如来のご代官」として、別人のように早変わりする。こうした矛盾した自己の相に気がつかないのは、宗教の世界への入り口に仕掛けられている法執という落とし穴に落ち込んでいるからに違いない。
信は真心ですから、自分で信じようとして信じられるものではなく、気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が生まれているのです。そうなろうと思うて、そうなるのではなく、気がついて見るとそうなっている心です。
欲は外に求めるもので、実現の可能性を予想しますが、願はまごころに裏づけられたもので、自己自身に求めるもので、絶対に成就する可能性がないと解っておりながら、なお求めずにおれぬという願いのことです。
炎慧地=この世の尊さが解れば、いよいよ現実の人生がいやになる。そこでこの三昧の世界の浄土と、現実の世界の穢土との葛藤が始まって、内なる不可称不可説不可思議の浄土の功徳が、現実に形をとって現われようと、まごころの智慧が炎となって燃えることです。
菩提心とならない信は真実の信ではない。信は自らの徳を外に具体化するために、必ず菩提心を産み出さねばならない。信は菩提心によって初めて成就されるのである。
地位に入って初めて、自分の経験した過去の全てが、悉く自己をして今日をあらしめるための尊い縁であったと、順縁であれ逆縁であれ、それに執われない心境に住することができる。
信は衆生の任かすか任かさぬかというような、決断によるのではなく、はっと気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が開けているのです。仏の方が先手です。
彼方に求められた理想は真実のものではない。真実のものは常に自己の内にあって、今日一日の生活の上にその徳を現すものである。
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浄土の風だより(浄土真宗本願寺派 浄風山吹上寺サイト)